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旅の記:2023年10月のツアー⑲毛越寺・平泉藤原氏遺跡群(岩手県平泉町)

【旅の記:2023年10月のツアー⑲毛越寺・平泉藤原氏遺跡群】

前九年・後三年の役を経て奥州の覇者となり100年の栄華を誇った奥州藤原氏。少年の頃に鞍馬山を出奔し、奥州藤原氏を頼って平泉に下った義経を、3代秀衡はひとかどの武将に育て、兄・源頼朝の挙兵を助けるべく送り出した。源平合戦では無双の活躍をするものの、兄との確執のために再び奥州に落ち伸びた義経をかくまうことに。しかし秀衡が亡くなると、その子・泰衡は頼朝からの圧力に耐えられなくなり、義経を討った。それは義経を大将として奥州軍が関東に攻め込むことを恐れた頼朝の策略だった。泰衡は義経の首を差し出したが、頼朝は家人の義経を許可なく討伐したとして、大軍を率いて奥州討伐を行い、ここに奥州藤原氏は滅亡した。
というわけで奥州藤原氏の繁栄を代表する建物は残っていませんが、その遺構を巡ってみました。

まずは無量光院跡。3代秀衡が京都の平等院を模して建立したという寺院。ご本尊は阿弥陀如来。その規模は平等院を上回ったそうですが、度重なる火災で焼失、現在は土塁や礎石が残るのみ。

中島の本堂跡
本堂が残っていれば、この池に映りこんだことでしょうね。

無量光院跡の近くには柳之御所跡があります。ここは出土した品々から「吾妻鑑」に記されている藤原氏の政庁・平泉館の跡と推定されている。文治5年(1189年)頼朝軍28万に攻められ、藤原泰衡自ら火を放ち、館は炎上したという。

そして、嘉祥3年(850年)寺伝によると円仁が中尊寺と同年に創建、荒廃していたのを2代基衡夫妻、3代秀衡が壮大な伽藍を再興したという毛越寺。現在は2代基衡が晩年、久安6年(1150年)から保元元年(1156年)にかけて造営したとみなされている。「吾妻鏡」によると、創建当時は中尊寺よりも規模は大きかったとされ、鎌倉時代に入っても幕府に保護されていた。しかし、嘉禄2年(1226年)に火災により多くの建物を焼失、天正元年(1573年)には葛西氏と大崎氏のとの戦火のため常行堂と法華堂が残るのみとなったが、その二堂も慶長2年(1597年)の火災で焼失した。江戸時代に入り享保13年(1728年)に常行堂が再興され、祭礼等の諸掛りを負担していた別当大乗院が後に堂を本坊に寄附した。天明6年(1786年)旅行家・菅江真澄が当寺を訪れて祭礼を見たことを記している。文政5年(1822年)には仙台藩主伊達斉義が巡視の折に立ち寄り舞を鑑賞、明治9年(1876年)には明治天皇が義経堂を訪れた時にも当寺に立ち寄っている。平成元年(1989年)に本堂を再建、本尊薬師如来、脇侍日光月光菩薩を安置している。

山門。毛越寺入り口。もとは一ノ関藩田村藩邸の中門で、天正11年に寄進された。
平成元年(1989年)建立の本堂
大泉が池。浄土庭園作庭当初の姿を伝える。池を囲むように遺構が残っている。
開山堂。慈覚大師円仁を祀る。
吉祥寺跡
講堂跡
金堂円隆寺跡
池に水を引き入れるための遣水
常行堂
常行堂・法華堂跡
鐘楼堂。昭和五十年建立。鐘は人間国宝香取正彦氏作。

毛越寺に隣接する観自在王院跡は2代基衡の妻が建立した寺院。寺域の北部に二つの阿弥陀堂があったとされ、中央部に池がある浄土庭園があった。文治5年(1189年)の藤原氏滅亡後は荒廃して、水田になっていた。庭園は昭和48年(1973年)~昭和51年(1976年)にかけて発掘・復元された。

南門跡
身分の低い人の牛車を格納する車宿跡

兵どもが夢のあと。。西行が訪れたという黄金期の平泉をぜひ見たかったですね!

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