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旅の記:2023年4月のツアー㉟知立神社(愛知県知立市)

【旅の記:2023年4月のツアー㉟知立神社】

知立神社は旧称を「池鯉鮒大明神」といい、江戸時代は「東海道三社」のひとつに数えられた。三河国二の宮。
主祭神に鸕鶿草葺不合尊 (うがやふきあえずのみこと)・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)・玉依比売命(たまようりびめのみこと)・神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)で、神日本磐余彦尊(かんやまといわれびこほほでみのみこと・初代神武天皇)とそのお父さん、お爺さん、お母さんをお祀りしています。相殿神は碧海地方(刈谷市・安城市・知立市・碧南市・高浜市とその周辺)の開拓にあたったと伝わる青海首命(あおみのおびとのみこと)と聖徳太子です。

第12代景行天皇の時代(仲哀天皇元年とも)、東国平定にでた大和武命(やまとたけるのみこと)が当地で皇祖の神々に戦勝を祈願した。無事その任務を果たせたことに感謝して、帰り道に建国の四神を祀ったのがはじまりという。
祭神に関してはヤマトタケルの従者である大伴武日(おおとものたけひ)と吉備武彦(きびのたけひこ)とする説や、大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘・木花知流比売(このはなちるひめ)とする説があるそうです。
国史上では文献の仁寿元年(851年)の条にその名があり、亀山天皇の弘長元年(1261年)に正一位を与えられている。

中世には水野氏の崇敬をうけるが天文16年(1547年)兵火で焼失、重原に遷座し、さらに元亀2年(1571年)に現在地に遷座、水野信光が社殿修造と社領を寄進した。江戸期には東海道沿いに鎮座し「池鯉鮒大明神」として信仰され、参勤交代をする諸大名は必ず神札をうけたという。特に神札を身に着けているとマムシに噛まれないとされて、北関東から山陰まで各地に分社が建てられたそうです。

総持寺の回でも書きましたが、徳川家康の次男・秀康を産んだお万の方が当社の社人・氷見氏の出です。双子で生まれたとする秀康の兄弟は氷見貞愛として第32代神主になったという。

多宝塔。永正6年(1509年)の再建。明治元年の廃仏毀釈の際には本尊・仏壇を除いて文庫とされたために破却を逃れる。本尊は現在は隣の総持寺に安置。大正9年(1920年)に解体修理され復元された。重文。
享保17年(1732年)の造営である石橋
御手洗池
拝殿。江戸後期から昭和にかけて造営。
本殿は天保2年(1831年)、幣殿は大正期の造営。
裏手にひっそりと吉備武彦命を祀る土御前社。
秋葉社。他摂社末社があります。




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