見出し画像

旅の記:2023年7月のツアー㉚氣比神宮<越前国一宮>(福井県敦賀市)

【旅の記:2023年7月のツアー㉚氣比神宮】

氣比神宮は当社特有の神・伊奢沙別(イザサワケ)を主祭神とする越前国一宮です。イザサワケは御食津大神(オケツオオカミ)とも称し、食物の司る神様であるそうです。仲哀天皇(第14代)・神功皇后・応神天皇(第15代)ファミリーとのつながりが強く、記紀には仲哀天皇が角鹿(敦賀の古称)に宮を営んだとか、熊襲の謀反の時は神功皇后は角鹿にいて、そこから出発したとか、神功皇后の三韓征伐の帰途に生まれた応神天皇は、武内宿禰(タケノウチノスクネ)に連れられて氣比神に禊のために参詣したなどの記述があるそうです。越前から入京して天皇となった継体天皇(第26代)は、応神天皇五世孫とされるので、納得のつながりですね。
というわけで仲哀天皇・神功天皇をご本殿に、そして本殿を囲むように日本武尊(ヤマトタケルノミコト)・応神天皇・玉姫命(タマヒメノミコト)・武内宿禰を四社の宮にお祀りします。
主祭神・伊奢沙別(イザサワケ)は天筒山の方向にある「土公」と呼ばれる小丘に降臨したとされ、仲哀天皇8年に神功皇后と武内宿禰が氣比神を祀り、これが神宮創建となった。持統天皇6年(692年)の国史に神封の増封の記述があり、大宝2年(702年)に文武天皇の勅によって社殿を造営し仲哀天皇・神功皇后を合祀、四社の宮を建立した。
中世以降、越後国の一宮として「北陸道総鎮守」と称された。南北朝時代、宮司たちは南朝方につき、金ケ崎城の戦いにおいて奮戦したが、北朝方は敗れ一門は討ち死に、社領を減らされた。戦国時代は朝倉氏の滅亡とともに社殿のほとんどを焼失、社領も没収されてしまい、著しく衰退した。
江戸時代には慶長8年(1603年)結城秀康から100石を寄進され、慶長9年(1604年)に社殿造営によって再興がされた。徳川3代将軍・家光や大野城主・松平但馬守からの奉幣を受けるが、かつての繁栄には遠く及ばなかった。
明治28年(1895年)に「氣比神宮」に改称。昭和20年(1945年)敦賀空襲により結城秀康が造営したという旧国宝の社殿の多くを焼失、本殿は昭和25年(1950年)に再建・修復されている。

空襲をサバイブした大鳥居。正保2年(1645年)酒井忠勝の寄進により佐渡の室の木で再建。木像朱塗で高さは36尺(10.93m)で奈良の春日大社・広島の厳島神社の鳥居と合わせて「日本三大鳥居」に数えられる。(重文)
猿田彦神社
旅の無事を感謝し、祈る。
長命水。大宝2年の社殿造営の際に地下水が噴出、祀られた神々の御神徳が宿る神水として信仰されています。
旗掲松(はたかけのまつ)。南北朝時代延元元年(1336年)後醍醐天皇を奉じて氣比大明神の神旗を掲げたという祈願の松、の旧松根から芽吹いた二代目。
ご本殿
神明社
九社の宮
ご本殿

朝鮮半島や大陸との玄関口にあたる要所で、機内から北陸への入り口にあたる越前。氣比神宮の社伝や継体天皇のことにしても、朝廷と強いつながりを持つ強大な勢力がいたと思うととても興味深い場所ですね!





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?