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旅の記:2023年8月のツアー㉕盛岡城(岩手県盛岡市)

【旅の記:2023年8月のツアー㉕盛岡城】

平安時代末期から陸奥国北部に拠点を置き、勢力を広げていった南部氏。天正18年(1590年)第26代当主・信直は小田原に参陣し、豊臣秀吉に謁して領地を安堵された。翌天正19年に九戸政実の乱では豊臣秀次を総大将とした10万とも言われる奥州仕置軍の協力を得て政実を倒し、三戸城から政実の居城であった九戸城に本拠地を移した。しかし九戸の不便さを浅野長政に説かれ、不来方(盛岡)の地に移ることを決め整地を開始した。
慶長3年(1598年)信直は秀吉に築城許可の朱印状をもらい帰国、跡継ぎの利直に命じて築城を開始した。
慶長4年(1599年)信直逝去。享年54.
慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで利直は東軍に属し、徳川家康により所領を安堵された。
慶長20年(1615年)頃までは総石垣の城としてほぼ完成し、利直が「盛り上がり栄える岡」という願いを込めて「不来方」を「盛岡」に変更した。
寛永10年(1633年)3代・重直の時代に盛岡城全域が竣工した。翌年には失火により本丸を焼失し、一時福岡城(九戸城)を居城としたが一年で修復され、盛岡城に戻り、それ以降は盛岡藩庁として明治維新を迎えることになる。
明治元年、戊辰戦争に敗れた盛岡藩は、新政府軍に全面降伏し帰順が認められると、新政府軍が盛岡城に入城。藩主であった南部利剛は奥羽列藩同盟に加わったかどで蟄居されられ、南部家41代・利恭が家名存続を許されて白石13万石へ減転封させられる。
明治2年(1869年)政府に70万両の献金を約束し、利恭が白石藩知事から盛岡藩知事に転任した。しかし、、献金の大半は調達できずに、政府は廃藩の圧力をかけて、利恭は辞表を提出し、明治3年(1870年)青森県が設置された。
明治4年(1871年)廃藩置県により盛岡城はその役割を終えた。明治6年の廃城令では、存城(陸軍兵営地として城郭建造物、石垣等を整理し活用する)扱いとされたが、老朽化が激しく、建造物は解体移築された。明治39年(1906年)に「岩手公園」として開演、昭和12年(1937年)には国の史跡に指定された。

櫻山神社から登城しよと思いまいしたが、地震や経年変化により、石垣の修復中で通れなかったので、
ぐるっとまわって
一度解体された石垣の石かな。また積まれる日まで、、
車御門から
二の丸。新渡戸稲造記念碑や石川啄木歌碑がありました。
ご本丸へ
本丸
本丸には日露戦争で亡くなった南部家42代当主・利祥の騎馬像があったそうですが、先の大戦にて金属供出で持ち去られ、台座だけが残されたという。
腰曲輪
元和(1615年~1624年)から寛永(1624年~1644年)の初期に積まれたと考えられる腰曲輪の花崗岩の石垣。

東北では珍しい石垣の城で、白河小峰城、会津若松城と並んで、東北の石造り三大名城に数えられる。

8月のツアー、オフ2日間で巡った青森県八戸から盛岡まで、主に南部氏の歴史をたどりましたが、ここ盛岡城で岩手県を後にします。南部氏、おもしろいですね。津軽為信との確執や領土問題にも触れたかったですが、また津軽方面を巡ったときに、そちらの角度から記してみたいです。

さ、山形は米沢へ移動です!



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