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旅の記:2023年10月のツアー①小山評定跡・小山城(栃木県小山市)

【旅の記:2023年10月のツアー①小山評定跡・小山城】

2023年10月のツアーは8月に続き東北第2弾、ライブとしては栃木・秋田・岩手・福島となります。というわけで、まずは栃木県小山市にあります小山評定跡。
慶長5年(1600年)実質的に天下人となっていた家康の上洛要求を聞かず、城の補強や軍備増強を図る上杉景勝に対して、会津征伐を決定、軍勢を率いて北進した。しかしここ小山に達すると石田三成挙兵の報が入る。家康は諸将を集め「このまま上杉を討つか、転進して三成を討つか」意見を求めた、とされます。この時集まったのは徳川家康、秀忠父子をはじめ、本多正信、本多忠勝、井伊直政ら徳川の家臣たち、福島正則、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、加藤嘉明、蜂須賀至時、山内一豊らであった。
家康と事前の打ち合わせがあったともされる福島正則が「大坂のことはいざ知らず、わしは内府とともに、三成めを討ち平らげると決めた」と発言し、諸将が賛同すると、掛川城主であった山内一豊が城の提供することを申し出る(堀尾忠氏の案をパクった疑惑もありながら)、すると他の武将たちもそれに倣ったという。福島正則を説き伏せたのは黒田長政とされ、戦後に筑前国52万石を与えられている。また城の提供を最初に申し出た山内一豊は土佐一国を与えられている。
関ケ原の戦いに繋がる大事な出来事であり、ドラマなどでも印象的なシーンですが、、この小山評定自体があったかどうか、その真偽はいまだに不明ということでもあります。後世の記述はあるものの、十分な一次資料が発見されていないというのが主な理由ですが、いずれにせよ僕はとても大好きな逸話なので、来れてよかったです!

小山市役所の駐車場に
小山評定跡の碑があります。
裏手には小山御殿広場跡。

徳川将軍家の日光社参の際に休憩場として元和8年(1622年)に建てられた小山御殿があったそうです。将軍家は全部で19回日光東照宮へお参りしているが、その内10回がおじいちゃん大好き家光が行っています。しかし幕府は財政難に陥り、寛文3年(1663年)に4代将軍家綱以来、享保13年(1728年)に8代将軍吉宗が再開するまで途絶えることとなる。その間に、台風のために建物の一部が壊れてしまったりして、御殿は天和2年(1682年)に古河藩によって解体されたそうです。
また小山御殿は小山城(祇園城)の曲輪にあたる範囲だったということで、近くにある城跡へ。

小山城(祇園城)は久安4年(1148年)に小山政光によって築かれたという伝承があるそうです。光政は子・朝政と共に治承4年(1180年)の頼朝挙兵の際に味方し、文治5年(1189年)奥州合戦でも活躍、鎌倉時代に下野国守護となった。支城であった小山城は南北朝時代に小山泰朝が居城として以来、小山氏の本城になったという。康暦2年(1380年)~永徳2年(1383年)にかけて小山義政の乱が勃発、鎌倉幕府に追討され小山氏は断絶するも、同族の結城家から養子を迎えて再興した。天正4年(1576年)小山秀綱が北条氏照に降伏、開城した。この時、400年続いた関東の名門小山氏は事実上滅亡した。城は氏照の手によって改修され、北条氏北関東攻略の拠点となる。秀綱は氏照の配下になることで小山復帰が認められた。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が没落すると、小山氏の旧領は結城晴朝に与えられ、秀綱はその養子である結城秀康に仕えることになった。秀綱はあくまでも小山氏再興を夢見たが、失意のうちに病死した。その後の小山氏は水戸徳川家につかえ、子孫も代々水戸藩上級藩士として続いたという。
さて、小山城には慶長12年(1602年)頃に本多正純が入封したが、元和5年(1619年)に宇都宮へ移封となり、小山城は廃城になったということです。
祇園社という別称は小山氏守護神である祇園社(現・須賀神社)からとられたそうです。
下野国や隣の常陸国あたりの武将は認知度は低いかもですが、小山氏を初め宇都宮氏や小田氏など、鎌倉時代から続く家がたくさんありましたが、江戸時代前に没落してしまったところが多いですね。親戚関係も複雑なので、なかなかお勉強するにも大変な地域でもあります!

少々分かりにくいところから侵入したので、、
しっかりとはまわれませんでしたが。
塚田曲輪跡
中曲輪跡
僕が泊めた駐車場は北久保跡となっていました。


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