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旅の記:2023年9月のツアー⑧高松城(香川県高松市)

【旅の記:2023年9月のツアー⑧高松城】

三大海城の一つ高松城へ。他の二つも今治城と宇和島城ということで全部四国にあるんですね。
豊臣秀吉による四国制圧が成った後、天正15年(1587年)に生駒親正が讃岐国12万6千石に封ぜられると、最初は引田城、そして聖通寺城に入るが、どちらも手狭だったため天正16年(1588年)玉藻浦に築城をはじめ、天正18年(1590年)に完成した。この時に「野原」という地名を「高松」に改めた。
生駒氏は4代・高俊の時にお家騒動(生駒騒動)により1639年(寛永16年)出羽国矢島1万石に転封となる。藩政を顧みず、やりたい放題で、家臣たちが対立、幕府にばれて、、のパターンですね。その後、讃岐国は分割統治されていた。寛永18年(1641年)西讃地域に山崎家治が入って丸亀藩がとなり、寛永19年に常陸国下館藩から水戸藩主徳川頼房(家康の11男)の庶長子松平頼重が東讃地域に12万石で入封、高松藩が成立した。頼重は水戸光圀の兄であるが、頼房が将軍徳川家光や兄たちより先だって嫡男をもうけたことに遠慮して、とも、母が正式な側室ではなかったためとも言われ、3男・光圀が水戸藩の世嗣となって次男扱いとなっていた。このため光圀は家督を頼重の次男に譲り、自身の子・頼常を高松藩主にした。これ以降水戸本家と高松藩との子の入れ替えは何度か行われていて、最後の将軍・慶喜は頼重の直系の子孫であるそうです。ただ幕末、将軍継嗣問題で対立、それを引きずって高松市と水戸市は不仲だったことがあるそうですが、今は友好都市になっています。
また10月に水戸に行っているので触れると思いますが、その辺は触れると思います。
さ、その頼重も城の整備を続け、2代頼常に引き継がれる。寛文9年(1669年)に小倉城を模した3層5階の天守が完成して頼重は隠居した。寛文11年(1671年)にも大改修を行っている。城は11代228年間にわたり松平氏の居城として栄えた。
慶応4年(1868年)には鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍についたいために朝敵とされたが説得を受けて恭順に決まり、家老2名が切腹、藩主・頼聰も謹慎し、高松城は無血開城され、土佐藩が接収した。その後すぐに頼聰は謝罪のための上京を命じられ、土佐藩は城を返還、新政府へ軍資金12万両と引き換えに許され、宥免された。
しかし藩内では不満を持つものもあり、尊皇派藩士の暗殺が起こり、明治4年(1871年)には頼聰に閉門が命じられ、多くの藩士が処分された。このことが新政府の心象を悪くしたため、廃藩置県ごも徳島や愛媛に統合され、独立した県として認められたのは全国で最後となり1888年の12月3日だったという。
高松城は明治2年(1869年)版籍奉還に伴い廃城。明治17年(1884年)老朽化のため天守を破却。高松空襲により三の丸の桜御門焼失。空襲を生き延びた建物が重要文化財に指定され、国の史跡にも指定される。その後も天守台の積み直しや、桜御門の復元再建など、とても大切にされているのが分かります。現在は玉藻公園として有料開放。城は別名「玉藻城」とも呼ばれ、万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことから。

東門(大手門)より
艮櫓。重文。
内側から艮櫓
桜御門。令和4年(2022年)再建。できたばかりだ!
披雲閣入り口。松平家の高松別邸として大正6年(1917年)に竣工。重文。
天守が見えます。
三の丸。披雲閣には昭和天皇も宿泊された。現在は高松市が譲り受け貸会場として市民も利用できるそうです。裏手には庭園。昭和天皇お手植えの松もあります。
堀の水位を調整する水門。
鉄門跡
二の丸跡
本丸と二の丸をつなぐ鞘橋。刀の鞘に見立てて。かつての絵図をもとに1971年に架けられた。
本丸跡
天守台へ
天守台から見た水門と鞘橋。天守は高知城、松山城を凌ぐ四国最大規模だったそうです。
水門近くの塀から瀬戸内海方面。かつては海に接していたそうです。
延宝4年(1676年)に建てられた月見櫓と水門。重文。

天守はないけれど、立派な櫓が現存していて、見ごたえありのお城でした!

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