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身体が思い通りに動くよろこび、そして動かなくなっても

日常において自分は健常者だが、スポーツにおいては障がいを持っていた。

15年間の卓球漬け生活のなかで、「身体が思い通りに動かない」という大きな壁が、常に目の前に立ちはだかっていた。

当たり前にできていた動作が突然できなくなる、というのは理解が追いつかないほど衝撃的で、自身の努力でどうこうできる問題では無いと悟ったときの絶望感はすさまじいものがある。

スポーツで見られるイップスや、音楽などで見られるジストニアには、意識とは関係なく、身体が意図していない動きや硬直をする症状である。それも全ての動きではなく、特定の動作でのみ発症するもので、自分の身体では無いような感覚を持つ。

あの身体が乗っ取られたような嫌な感じ。右手でラケットを握るのをやめて、左手で始めた方がいいんじゃないかとすら思った。卓球を始めたてのチームメイトを見て、自分も全ての感覚をリセットできれば、こんなに悩まずに済むのに、と何度も思った。

そんなふうに、乗り越えたというより、ただ耐えていたような障がい者としての生活だった。



そして今、自分は「歩くこと」を通して、身体を思い通りに動かせる喜びを存分に味わっている。

「身体が思い通りに動かなかった」という強烈な体験が、アイデンティティの一部となり、今の生活の楽しさの源泉となっている。「身体を動かす楽しさ」というものを誰よりも理解している気がする。

先日は、長野県の山々に雪が降り、その雪景色が見たくて一日中歩いた。雪が降りたてで真っ白な世界。夏の登山道とは違う、雪に足を取られながら少しずつ進んでいく感覚。

いつもなら、風景をどのように切り取るか考えてカメラのシャッターを切るのに、雪景色になると、どんなアングルでも美しくなる。

歩いているときに、日常の悩みや憂いが、頭に浮かび上がってくることはない。ここまで歩こうという目標と大自然だけがあり、頭でぐるぐると渦巻く終わりなき思考は、整理され、洗練されていく感覚を持つ。



10代はスポーツに没頭し、20代は歩くことに没頭している。そして、もし今後なにかの原因で歩けなくなったとしても、自分は必ず喜びの源泉を見つけて、別の楽しみを得ているだろう。目が見えなくなっても、足が動かなくなっても、その絶望を越えられる自信がある。

なにかに障がいを持った者は、必ずそれと戦い、そして自分が今できることに最大限の集中を払うことができる才がある。「できない」という強烈なエネルギーが、それを可能にする。

身体が思い通りに動かなかった経験が、歩くことの楽しさに変わって、今も続いている。今日も家の近くをたくさん歩こうと思う。






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