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やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声

蝉の鳴き声に想うこと

この土日はようやく夏らしい天気に恵まれ、蝉の声がやかましかった。

蝉の一生(特に成虫になってから)は短いからこそ、そのけたたましい鳴き声にときどき人は胸を打たれたりする。
しかし、しょせんは一生の長さなどは相対論でしかなく、めいめいが限られた生を生きる以外ないという意味では、蝉も人間も変わるところはない。

芭蕉は、「やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声」と詠んだ。
蝉でなく、人間においても、日常的に死を意識しながら生きている人は必ずしも多くないであろう。

限られた生を「よく生きる」ということ

もっとも、これは哲学や文学の功績ではないかと思うが、人間の世界では、死を意識した人生観、文化が発達してきた。

死を意識した人生観はさまざまありえ、その中には諦念に基づく思想もあろうが、個人的には、坂口安吾の「教祖の文学―小林秀雄論―」の次のような一節にシンパシーを覚える。

人間は必ず死ぬ、どうせ死ぬものなら早く死んでしまへといふやうなことは成り立たない。恋は必ず破れる、女心男心は秋の空、必ず仇心が湧き起り、去年の恋は今年は色がさめるものだと分つてゐても、だから恋をするなとは言へないものだ。それをしなければ生きてゐる意味がないやうなもので、生きるといふことは全くバカげたことだけれども、ともかく力いつぱい生きてみるより仕方がない。
自分といふ人間は他にかけがへのない人間であり、死ねばなくなる人間なのだから、自分の人生を精いつぱい、より良く、工夫をこらして生きなければならぬ。人間一般、永遠なる人間、そんなものゝ肖像によつて間に合はせたり、まぎらしたりはできないもので、単純明快、より良く生きるほかに、何物もありやしない。

最近ではテクノロジーによるウェルビーイングの実現が注目されているが、要は、時代が変われば「よく生きる」ことに関する思索のあり方も変わるということだ。
テクノロジーもイノベーションも、究極的には個人の幸福のためにある。

「お金の流れ」と個人の幸福のこと

READYFORはテクノロジーを使って「お金の流れ」をアップデートしようとしているため、仕事柄、お金と個人の幸福の関係について考える(あるいは考えさせられる)ことも少なくない。

たとえば、「Readyfor」で公開された1件のクラウドファンディングが、支援・応援を動機とする数千万円単位のお金の流れを実現することがあるが、人間はけっこう利他的な面を持っているとあらためて思わされる。
また、それは、貨幣的価値として記述できる価値がすべてではないということでもあるように思う。
人間は、けっこう経済的利益に換算できない価値も重視するし、そうであるからこそ、貨幣による価値の記述力には限界もあるのだと思う。

収入が多いほど幸福度が増したり、悲しみやストレスが和らぐとは限らないという研究成果もあり、「よく生きる」という観点からも、資本主義をアップデートする(資本主義自体を否定するというよりは、それを補完する)ことが求められているように思う。

たとえば、
・消費者の立場で物・サービスを消費して得られる幸福には、限界があるのではないか?
・財産を持ったまま三途の川を渡ることはできないが、物を所有することにはどのような意義があるのか?
・いずれ自分は死ぬ以上、自分の想いを次世代につなぐことを実現できるお金の使いみちはないか?
などの問いは、「よく生きる」ということを考える上で無視できないように思われる。

クラウドファンディングやシェアリングエコノミーの普及なども、資本主義のアップデートの動きの一部であるとも捉えられるが、そうした動きは今後も加速・拡大していくであろう。

それは個人の幸福に資すると思えるから、微力ながら、自分自身もそのために取り組んでいければと思う。

おわりに

春に満開の桜をみては儚さを感じ、夏にやかましい蝉の鳴き声を聞いては儚さを感じ、秋が深まり吐く息が白くなっても儚さを感じる。

日本の四季・風土は、折に触れて儚さを感じさせるに十分な題材を提供してくれるので、日本で生きていると儚さを感じることに忙しい。
それは、個人の幸福について考える上でも、とても恵まれたことであるように思う。
「やがて死ぬ」からといって「よく生きる」ことをあきらめるわけにもいかないし、「やがて死ぬ」からこそ「よく生きる」ことを一生懸命考える必要があるともいえるのであるから。

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