自分の問題と他人の問題を分けられない
周りを気にしてばかりいた幼少期を過ごしていた僕にとって、自分を消すことが最も重要だった。
目立ちたくなかったからだ。
小学生の頃から吃音症が発症して誰とも話せなくなった僕にとって自分がうまく話せているかをいつも周りの人の表情で判断していた。
聞き取り辛そうな顔を見た瞬間に喉の奥が緊張して固まってしまう。
吃音症は治まるどころか悪化してばかりだった。
吃音症に苦しめられてから30年。
ある想いに行き着いた。
吃ってしまうのは自分の問題。
僕の言葉に顔を引き攣らせるのは、周りの人の問題。
勝手に変な顔をしているだけなのだ。
だから僕には関係ない。
原因が僕にあったとしても反応している相手のことまで気が回るわけがない。
自分のキャパシティを超えたことまで気にしようとすることがそもそもの間違いだ。
自分ができることといえば、自分が気持ちよく話せる環境作りと気持ちの整理ぐらい。
明らかに人に迷惑をかけてしまったことを自覚しているのであれば素直に謝ったほうがいい。
それは人として。大人として。
それでも仕方ないことも世の中にはたくさん存在する。
互いの正義感を振り翳している戦争が仕方ないとは思わない。戦争まで発展させてしまうと困る人が大勢いる。明らかに求められていないことはわかる。
結局自分の問題と他人の問題を分けられない人同士が戦争みたいな喧嘩に発展する。
気持ちの代弁者が一番ややこしいのだ。
いや、お前じゃなくて当人出てこいよ!となる。
そのほうが話も早いし解決に持っていける。
その手のことは日常で起きやすいと感じる。
これは今誰の問題か。
自分の問題なのか。相手の問題なのか。
自分の問題のように熱くなっていることも冷静に考えてみると、首を突っ込みすぎな場面もいくつか発見できるだろう。
そして基本的に相手の周りの人の問題を自分ごとのように振る舞える人は優しい。
弱い人をほっと気ない正義感の塊のような人だ。
あまりにもタフすぎて自分が苦しんでいることさえも気が付かない。
いうまでもなく、吃音症に苦しむのは僕の問題。他の誰のせいでもない。
あの人が緊張させるから僕は吃ってしまう。何てことは思わない。
むしろ思っても仕方がない。
気持ちの面はどう足掻いても自分がなんとかするしかないのだ。
自分の問題と相手の問題を分けることができたら自分のことを相手のせいのしなくなるのが最も大きいところではあると思う。
自分のことをしっかりやれる人だけ少しばかり周りの人のことを考える資格ができるというものなのかもしれない。
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