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リアリティがあれば政治は面白い

 面倒なことを起こしたくない。政治なんかに関わると面倒なことになる。損をさせられている気がするので、悪そうなやつ はみんな罰を食らえばいい。政治の情報なんてどうやって得るのかわからないし、何が正しいかなんて分かるはずもない。そんな鬱屈とした感じが続く。一方で、もっと責任を持ちたいし、関わるコミュニティの全体性に積極的に参加したい。 自分の所属するコミュニティ以外も尊重して、できれば交流なんかもあるといい。そんな爽快さを味わいたいとも思っている。こんなことを口にするのは勇気がいる。お前はバカなんだから利口なやつに任せておけ、お前なんかに任せられるわけがない、 政治の前にもっと働けとなどと言われそうだ。私には、政治を、そして私自身を何から始めればよいのか分からなくなって いた時期がある。

 日本という概念、日本という言葉の対象は何なのか。共通性などは薄く、その文章を書いた人、発話者それぞれが、それぞれの日本に与えた意味のことを話しているだけのように思っていた時期がある。ラトゥールの『社会的なものを組み直す アクターネットワーク理論入門』によれば「社会」「権力」「構造」「コンテクスト」「資本主義」「帝国」「規範」「個人主義」などの概念は、本当にそれが名指しているものが明確ではないまま使われすぎる傾向があると指摘され ていた。政治を何から始めればよいのか分からない私にとっては、とりあえずのゼロ地点を見つけたようなしっくり来る指摘だった。対象が明確ではない言葉に引っ張られるのはやめにして、素直で正直な感覚と、その連なりから小さい社会を想像してみたい。それが自分にできることだ。サルトルは「実存は本質に先立つ」と言った。人間には生まれつき社会的な本質(意 味)があるという物語を否定し、逃れられない存在自体から意味を立ち上げて社会的な本質(意味)に繋げていく真逆の行為だ。しかも、意味を失った実存は内に救いを求めるのではなくて「外」へ向かい冒険する。実存を「外」と関係づけることによって意味を見つけながら社会を立ち上げるのである。意味が先にあるのではない。ハンナ・アーレントは『人間の条件』の中で「政治を自己とは異なる他者に対して言語を使って働きかけ、結合する行為である」と指摘したことに似ている。また、それは政教分離の基礎的な身体感覚とも言えそうだ。フランスの「自由、平等、友愛」(Liberté, Égalité, Fraternité リベルテ、エガリテ、フラテルニテ)なんかも、自由と平等という存在の内の方にいく力に対して、友愛によって外にいく力を持たせようとしている。社会秩序、自他の バランス感覚を三つの力で均衡させているのである。

 もうひと掘りしてみよう。現象学を構築したフッサールは『デカルト的省察』 の中で「他者は分身として、もう一人の自己として構成され、他者は自己の認識論的な問題であり、自己の意識の知覚である」とした。これは他者を理解することの難しさの構造であり、だからこその対話の構えであり、優しさが生まれる根源でもあると思える。冒険したあとは反省しなければならないのである。このような自己と他社と社会の関係性、それらを行為する政治にはクリエイティブが必要であり、秩序が生まれ、美が生まれる構造がある。政治には惹かれるものと反省がセットであってほしいものだ。

 テレビ、スマホ、お金にはすでに意味が組み込まれていることが多い。最初から意味を持ったものを受け取っていては、 そこに自分の居場所はない。すでに取り上げられている意味の幻影を見ていることになる。実存から自分なりの意味を立ち上げ、すでに意味付けされたものを吟味し、身体性や実存といった根拠を示しながら現代の政治を観察し参加することを自らに求めていきたい。政治や社会に楽しく参加する一つの方法論として身体性によるリアリティの担保を提案したい。

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