オランダ語A2修了・千尋と私

いつの間にか年が明けていた。明けましておめでとうございます。去年は長くかかった博士課程が終わったり、職を得たり失ったりして色々忙しかったが、とりあえず健康に毎日生活できていることに感謝。元々ブログを書き始めた理由が博士課程の日常を綴ることだったので、博士学生という肩書きがなくなった何もない一般人の近況を書くことに違和感もあるが、これまで続けてきたことなので書き残す。


オランダ語A2修了

オランダに来るきっかけとなったフルタイムの仕事がなくなってから、パートタイムで働きつつ語学学校に通い始めた。十一月中旬からインテンシブコースという週四日集中的にオランダ語学べる学校がユトレヒトにあったので、そちらで猛勉強して先日A2レベルまで終わった。過去の様々な語学学習の経験もあってか成績は悪くなかった。次のB1レベルまではまた一段と難しくなるようだが、同様にインテンシブコースを続けようか、それとも週二回のゆっくりコースに変えるか悩み中。とりあえず二月にオーストリアに旅行に行くので、三月以降にどうしようか考える。

ヨーロッパでは語学能力をA1(初級者レベル), A2 - B1, B2 - C1, C2(ネイティブレベル)という基準で測ることが多いのだが、私はAからCの三段階中の一番下のレベルが終わったところで、これでは日常会話もままならない程度である。ただ結構文法はたくさん習ったので、あとは語彙力をめちゃくちゃ高めればそれなりに会話できるような気はしている。兎にも角にも恐れずに喋っていくことが必要なので、家でも働いている時もなるべく英語を使わないようにしてはいる(が、なかなか難しい)。

これまでに語学を習ってきた時は大体大学の中の授業を取ることが多く、それゆえクラスメートは大学生か趣味程度に言語を学びたい社会人が多かった。今回は語学学校の集中コースということで、クラスメイトはほぼ移民か難民のオランダ語の習得が必要な人ばかりで、みんなのモチベーションも高く私自身の勉強も捗ったと思う。

千尋と私

昨年の五月にオランダに移住したのだが、六月末には仕事をやめることになった。決断に後悔はしていないのだが、現実問題としてそのまま無職でいるわけにもいかず、就職活動を始めることになった。ただオランダ語も喋れない状態ではどこにでもすぐ就職するというのはなかなか厳しいという現実が待っていた。

結局八月末にはパートタイムの仕事をユトレヒトで見つけて、自分の住んでいる田舎から定期的に抜け出せ、また日本人とオランダ人の同僚やお客さんと接することにより、オランダにおける私のネットワークが広がって行くことになる。ただそんなことがまだ決まっていなかった七月〜八月の間、家で一人で過ごしている時が地獄のようだった。その時は経済的な不安のせいだと思っていたのだが、今考えると経済的というよりは社会的な不安であり、このまま一人でいたら消えてしまうんではないかという焦りであったように思う。物理的には死なない限り消えないのだが、社会的に存在していないことになってしまうのではないかという恐れである。そういえば浪人の時も同じようなことを感じていたような気がする。

最近宮崎駿の『君たちはどう生きるか』を見たせいか、昔の映画のことも思い出し、そういえば『千と千尋の神隠し』では主人公の千尋が潜り込んでしまったあちらの世界で生きていくために、ひたすら「ここで働かせてください」と頼み込むシーンがあったことを思い出す。仕事の働かないものは湯婆婆に動物に変えられてしまうのである。当時映画館で見たのだが、その頃はまだ十二歳でその言葉についての深い意味も考えず、また数年前にももう一度見返した時にも、労働ということについて何か思うこともなかった。

小松原織香さんが千と千尋と労働についてまとめている文章があって、収入面以外でなぜ人は働くのか、また人が労働に求めることは何かということを考察している。千尋が仕事を手に入れるまでに手助けしてくれた人々、また働き始めて関わる同僚やお客様など、労働というのは共同体の中で存在し、また労働を通して維持されている。

宮崎の作品は、労働を称揚するのでも、毀損するのでもない。人々が働いて生きていかなければならないとすればどんな道があるのかを、湯屋という職場を描くことで示している。楽しいだけではないが、人と繋がり、毎日を生きていくために働く場。

小松原織香:どうして働くのか。「千と千尋の神隠し」に見る、宮崎駿の労働観

私は今三十四歳だが、大学にいた時間が長かったこともあって、ほとんど働いた経験がない。博士課程は奨学金をもらっていたけど、それは労働の対価という認識ではなかったので、学部を卒業してから給料をもらって生活していたのは合計で三〜四年ぐらいしかないと思う。なので労働について考えも浅く、究極的にはお金のためということぐらいしか思っていなかった。しかし労働はお金以上に大切な社会の中での「私の存在(価値)」を与えてくれていたということに気づき始める。

この文章の初めに「博士学生という肩書きがなくなった何もない一般人」というように私を表したように、肩書きという社会的地位は必ずしも労働だけによって与えられるものではない(例えば学生など)。ただ今の自分や昔浪人していた時のように、自分自身が自信を持って「⚪︎⚪︎をしている人です」と言えない揺らぎは、社会から自分が消えかけている(もしかして消えている)のではと自分に錯覚させるのである。

そういえば千尋が物理的に消えかけるシーンも冒頭にあり、ハクが赤い玉を食べさせてくれることによって消えずに済んだのだが、私にとっての赤い玉は一体何だろうかと考えてみたりする。誰かがくれるものなのか、私自身で編み出すものなのか。千尋は両親のせいで不思議な世界に潜り込んでしまったけど、私もある種自分の意思だけではなくオランダという「あちらの」世界に踏み込んでしまったとかしないとか…そんなことを考えて、千尋と私を重ねて考えていた今日である。

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