なりたい自分の質的変化

昔から自分はわりとなりたい自分像みたいなものを常に持っており、小学生あたりぐらいからは具体的にどういう風になりたいか考えていた気がする。例えば小学生の頃は内気で人と話すのが苦手だったので、誰にでも仲良く話しかけられる子を見て、あのこのようになりたいと思ったりしていた。

社交性はなかなか育つものではなかったが、高校ぐらいになるとそこまで気にならなくなった。社交性を獲得したのかどうかわからないが、少なくとも周りと比較してそこまで目立って悪くないかなとは思えるようになった。というか、そもそも社交性などは環境要因も大きいと思うことにも気付いて、あまり努力してどうにかしようと思わなくなったのもあるかもしれない。

社交性が気にならなくなってきた一方で、その辺りから自分にとって難しそうな人生選択をするようになり、自分の中の何かを育て始めた気がする。というのもそんなに難しい選択でもなく、最初のきっかけは高校の時に「理系科目が苦手だけど、卒業したら数学も物理もやらないだろうから今のうちにやっとくか」と思い理系に進み、そのまま理系で受験もした。なぜ得意科目をもっと伸ばそうという発想に至らなかったのかはよくわからないが、なんとなくそれが自分にとっていいような感じがしていた。

大学の間はおそらく平和すぎて何も考えておらず、それが祟って就職がうまくいかなかったのかもしれない。勉強は高校までのものと全然違って面白かったし、バイトはパン屋さんとリサーチアシスタントという、自分がやってみたかった仕事につけて順風満帆といった感じであった。サークルに入って人間関係も充実していたし、卒業間際は学部や研究界隈の人と仲良くなって、夜な夜な百万遍の小さな居酒屋でうだうだ語り合っていた日々が懐かしい。

そんな平和の時間も就職によって終わり、就職先もすぐに見つからなかったが、ピンチや逆境の時にこそいろいろ人間は頭を使うというか、その間に自分は人生で何をしたいのかなぁというようなことをぼんやり考えるようになった。京都で二つの場所で働き、どちらも仕事も人間関係もほとんど嫌な思いをしたことはないが、逆にそのぬるま湯に使ってる感じが「25でこんな感じになってたらやばいんではないか」という根拠のない焦りを感じたことにより、海外に留学しようと思ったわけである。というのは飛躍がありすぎてどうしてそうなったのかわからないかもしれないが、感覚的にいうと本当にある日突然「あ、日本を出なきゃ」と思ったのである(もちろん後付けでいろいろ論理だって理由をつけることはできるのだが)。

自分で決めて、色んな人に協力してもらってやってきた留学生活なので、どんだけ苦しいことがあっても後悔をしたことはなかった。苦しい時一瞬一瞬を思い出すともちろん楽しいものではなかったが、それも自分の使ってなかったこころの筋肉を鍛えていたようなもので、乗り越えると逆に身体が強くなったなぁというか軽くなったなぁというか、そんな感じである。まさにヨガできついストレッチのポーズをさせられて辛くてやめたくなるが、終わった後にすっきりする感じに似ているかもしれない。

そろそろ博士課程が終わりそうでまた仕事がないので、そのうち再びピンチの時間がやってくることに、今の平和な私はもう怯えている。これまでの経験から言うとその時間に色々考えるからきっと大丈夫と言うかどうにかなると思う反面、今回はどうにかならないのでは?と言う気もしてしまって、余計な不安のせいで本来やるべきことに手がつかなくなってしまったりする。心配してもしょうがないことは考えても無駄なのに、精神が弱ってると分かってていてもやめられないから自分はまだまだ弱い。

今、自分がどうなりたいかと考えてみると、今までと質的になりたい自分が異なってきていることに気付いた。昔は社交性なり何かしらの能力を伸ばそうという自分個人の内面のなりたい像だったのだが、今はどうなりたいかと言うと、「猫と大きな植物が飼えるお家に定住すること」という、自分個人の要素とは全くかけ離れたライフスタイルに目標がある。一見するとお金さえあれば解決するじゃんというような感じでもあるし実際そうなのだが、私に取って定住するという選択が難しく、今自分の生活がどうやってそのような方向に向かえるのか、もやもやしているところである。猫と大きな植物と言うのは比喩ではなく本当に欲しいのだが、比喩的に捉えてみると責任を負う対象という感じだろうか。どちらも定期的な世話が必要で、どこにでも持ち運べるものではないから、一度手に入れると決めたらどこかに逃げれない(というか私が逃げるような人間でありがたくないのだ)。

昔の友人が三十になる前かなったぐらいの時に、一度会社をやめて世界一周をしていて、その時にちょうどブダペストにいた私の家にも来てくれたのだが、その子が「三十までは自分のためだけに生きてきたけど、三十からは人のために行きたい」と言うようなことを言っていて、その当時の自分は「なんかすごいなぁ(自分は自分のことでいっぱいいっぱいだなぁ)」と思っていたのだが、今はなんとなくその気持ちがわかるかもしれない。人のために行きたいからと言って自分のことを蔑ろにするのではなく、むしろ人のためにと思えるためには常に自分に好奇心を持って学び続けることで、他の人に貢献できるような力が湧いてくるのかなぁとも思う。

これからそうだったように、これからも自分がまだ経験したことないことに挑戦してゾクゾクしたいのだが(もしかして若干マゾなのかな)、しかしこれからは自分自分というよりは、より持ちつつ持たれつな人生へと向かって行きたいかもしれない。