献身の順位

看護学生時代、授業のグループワークでこんなことをやった。
次の10項目を、人(あなた)が生きる上で大切なもの順に並べよ、というものだった。
愛、健康、お金、名誉など10こが並んでいて、ほとんどの人が1位が愛。数名が健康が1位。
健康でなければ人生を楽しめないし、愛よりも健康が1番だ、という人もいるし、
健康があっても愛のない人生は嫌だという人もいて、
自分にとっては確固たる順位だったとしても、人が違えば順位が違くて、人の価値観の違いがすごく良くわかるワークだった。

私が興味深かったのは「献身」の順位だ。
当時私の考えでは、献身の順位は結構高かった。
愛、健康、に次いで3位か4位くらいにしたと記憶している。
でも他の人ほとんどの人にとって、献身は下方のランクに位置付けられていて、論ずるにも値せず、愛と健康がどちらが上位かで皆が盛り上がる中、とうとう話題にも上がらなかった。

私は、心の中でなぜ?という疑問を膨らませていた。献身ってそんなに大事な位置じゃないのかぁ。

献身とは私欲を捨てて誰かのために尽くすこと。
自分を満たそう。自分を大切にしよう。と叫ばれている昨今ではとても流行らない。死語とさら言えてしまいそうだ。

私にも、自分主義の時期があった。その時期を経て今、献身はとても幸せなことであると思い直している。

子供が産まれた後、私は自分主義になった。
それは自分の幸福度が周りへ影響するから、母親は無理せず、我慢せず、自分を満たすようにすべきだ。みたいな思想が入ってきたからだ。
確かに一理ある。
そうして私の自分主義が始まり、自分が満足度やご機嫌をいつも計り、足りなければ、それが当然とばかりに自分勝手に振る舞っていた。
だって自分が満たされていた方がいいんでしょ?

子育てに一生懸命だったとはいえ、この時の私は、思い返すとすごく嫌なやつだった。
自分主義になり、幸せだったかと考えると、まぁその時は幸せだった。というよりも恵まれていた。自分主義によって幸せになったというよりは、そんな自分をも受け止めてくれる家族がいたから恵まれていたのだ。

初めての子育てに本当に一生懸命だった。
たくさん学んで、いいと思うことは全部やりたい、全身全霊だったと思う。
子供に集中する余り、他の家族を置き去りにしてしまった。
でも家族は、私を責めることもなく、そんな私を含め、理解しつつ、譲歩しつつ、共に暮らしてくれていたのだ。
それになかなか気がつけない自分主義の私は、家を離れてみてやっと気がついた。

私1人では幸せにはなれないのだと。

誰かのために尽くせること、尽くせる対象がいるということ。
結婚をして、夫がいて、子供が産まれて、介護の祖母がいて、親が老いて。
他人から見たら家事と育児と介護のトリプルパンチで大変な状況にも見えるだろう。
でもこれらは私にとって、大切な人との時間そのものだった。
献身とは大切な人を大切に出来るということ。
献身とは、大切な人の命の側にいられること。

もちろん側にいたら、憎らしく思えることもあるし、もううんざりすることもあるし、全てを捨てて1人になりたくなる時もある。
でも一方で、面白いTV番組を一緒に見るとか、畑仕事を一緒にするとか、料理を一緒にするとか、寝たきりの祖母のベッドに孫と犬を乗せて一緒におやつを食べるとか、死にたいと嘆き辛さの中にいる祖母の手を握れることとか、年老いた父母の心配やお節介が出来ることとか。取るに足らないような日常の一コマが、最高の安寧なのだ。

最も煩わしくて、この上ない安寧を与えてくれる。
平穏なだけではない、私たち家族なりのドラマに満ちた日々こそが、私の人生の醍醐味とも言える。
その全ては、大切な人の命のそばにいられるから感じられることなのだと思う。
そうして、自分の全てで、喜怒哀楽、憎しみも愛おしさも全ての感情を感じ尽くすことができることは、苦しみであるのと同時に、この上ない幸せなことなのかもしれない。

現代社会は命からどんどん離れていっている。
介護や死は施設で行われるもの。育児は社会サービスでするもの。命や生きることや、生身の感覚がどんどん身近なものでなくなっていっている気がする。
多くの人が期待する求められている形が実現されてきたということで、良いことだ。
良いことだけれど、少し寂しい気もするのは私だけなのだろうか。