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ライター講座を受講したら、過去への執着に気がついた

 『三行で撃つ』の著者である近藤康太郎さんのライター講座を受講している。昨日はその初回だった。近藤さんは最初からとても熱かった。書きたいと願うならば、長く深い努力の末に掴んだものを分けてあげよう。覚悟があるならついてこい!そんな本気の愛情を感じた。


 この講座は、直接、近藤さんに自分の書いた文章を添削してもらえるコースがある。「人前でダメ出しなんてされたくない。」ええかっこしいな自分が出てきそうになったけれど、そんなことを言っている暇はないと思い直し、添削付きのコースを選んだ。

 講座の本編がはじまってすぐ、まだ受け止める準備も出来ていない、まさかの初っ端で私の文章は取り上げられた。そして、見事に散った。

 自分でさえもう一度読むことをためらう文章をどうして提出してしまったんだ!と後悔してももう遅い。他の受講生と並んだ自分の文章は、破り捨てたくなる程の稚拙さだった。でも、これが現時点の自分なのだ。それを認めずに、先に進むことはできない。


 「私はなぜ書くのか」というテーマを選び、亡くなった父のことを絡めて書いた。

 近藤さんからの講評で一番深く残ったのが、父のことを書いたくだりは読者にとっては大した話ではない、ということだ。大した話ではないことを大した話のように書こうとするから大仰な文章になるのだ、と。

 とても言葉を選んで伝えてくださった。もちろん、父の存在を否定されたわけではないことは十二分にわかっている。それでも、一瞬、私の体は硬く、冷たくなった。大した話ではない・・・・・・、そうか、そうなのか。

 書いていた時には、確かにこのテーマを書く上で、父のことは欠かせないと思って書いた。けれど、本当にそうなのだろうか。本当に父は深く関わっているのだろうか。父の存在がなければ、私は書くことを選ばなかっただろうか。

 もう一度、手元の原稿を読んでみる。「あれ?父は関係ない・・・・・・」そう思った。そして、私はなぜ書くのか、というテーマだったはずのそれが、実はほとんど書かれていなことにも気がついた。


 私の20代は、父の介護と看取った後の介護うつで終わった。ずっと、その過去に意味を見出そうとしていたのだと思う。「あの経験があったから」「あの経験のおかげで」そう言い続けてきた。本当に長い間。だから、自分について書こうとすると、条件反射的に父のことが出てきてしまうのだ。そのことに、今回初めて気がついた。

 自分について書こうとしているのに、父のことを書いてしまう。それは、とても怖いことなのではないだろうか。私は書くことで自分を知り、自分を深める機会を自ら手放してきた、ということなのだから。


 私の人生において、あの頃に起こったことは大きな出来事ではあった。けれど、過去を反芻し続けるだけで、自分の人生を終わらせたくはない。


  もう過去に縛られなくても大丈夫。
  今を生きよう。自分を生きよう。


 初回の講座を受けて、まず思ったことだ。近藤さんから最初に受け取った文章へのアドバイスは、生き方へのアドバイスだった。

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