究極の贅沢

はじめに

近年、格差社会だとかお金の二極化だとか相対的貧困だとか、そんな言葉を見聞きする機会が多くなりました。

コロナによる収入減だとか、ロシアの石油や穀物制限などで円安が進行して家計を逼迫しているといった背景が大きいと思っています。

そんな反面、「頑張らないで生きていく」というような風潮も見え隠れしています。
「静かな退職」なんて言葉も聞いたことがあるのではないでしょうか。

おそらく、物質的な贅沢から精神的な贅沢へと現代人の考え方がシフトしているのかなと、勝手に推測しています。

ミニマルな生活をしていると、贅沢というのがとても分かりやすいです。モノが少ないのでモノ・コトの有難さが実感できるのだと思います。

今回は、常々「本当に贅沢だなぁ」と思ってしまうことをわたし目線でお伝えしていこうと思います。

日本に住んでいるということ

当たり前すぎて気付いていない方もいるのではないでしょうか。
わたしは日本という国に住んでいるということって本当に贅沢だと思っています。

税金が安い。
社会保障もしっかりしている。
衣食住に困らない。(最悪、生活保護というシステムがある。)
公共サービスが充実している。
暴力に支配されていない。(民主主義)
表現、言論、職業、ジェンダーなどの自由がある。
教育率が高い。
ライフラインが整っている。
水源や山林など資源が豊富。
四季がある。

マクロな視点で簡単にざっと列挙しましたが、こんなに手厚い国ってあまりないんじゃないかなと思います。
先進国でも税金が高いとか社会保障が手薄などの国がたくさんあります。

もちろん、日本だって弱点はたくさんありますが、それを加味しても日本に住んでいる恩恵というのはしっかり受けていると思うのです。

衣食住が安定していること

先ほども少し述べましたが、衣食住は人間の基本です。

それが充実しているか否かで贅沢の頻度が変わってくると思います。

世界を旅している際に、寝泊まりする場所や食べるものを探すことに必死でした。
見知らぬ土地で女性が野宿なんかできません。
安全と安心を得るために日々かけずり回ったのを覚えています。

ようやく宿を見つけ、しっかりした鍵付きの部屋で雨風を防ぎ、清潔なベッドで眠れたときの幸せといったら、本当に何にも買え難いものでした。

また、旅中はライフラインも死活問題でした。

電気とインターネット回線を確保するためにいろんな場所を点々をしたこともありました。

飲み水が足りなくなっても簡単に手に入らないなんて日常茶飯事でしたし、温かい湯船に浸かるなんて贅沢中の贅沢で、台湾で入った温泉が最初で最後でした。
ずっとシャワーでしたし、そのシャワーの湯量も少なく、時にはお湯が出なくて冷たい水のシャワーだけなんてこともありました。

コックを開けたらすぐに大量の温かい湯が出るなんて、わたしにとっては贅沢の極みです。

インプット・アウトプットできる

考える時間と、それを表現できることが贅沢という話です。


先日、友人が小学生の子供と乳児を連れて島に遊びに来てくれました。
子供と寝泊まりを共にするなんてことは初めての経験だったのでわたしもウキウキしていたのですが、実際に一緒に過ごした時間はわたしにとって青天の霹靂とも言える体験でした。

本当に、子供と一緒にいるって大変!

正直、子供の運動量を舐めていました。

ずっと動いて留まることを知らないアスリート並みの活動量と知識欲。
また、承認欲求の強い歳の子供は何をするにも親に見ていてほしくて仕方ない。見て、そして誉めないと癇癪を起こしてしまう。
目を離した隙に何をしでかすか分からないから、常に気を張っていないといけないし、気をつけていても色々とやらかしてくれる刺激度マックスな生き物。

起きている間、いや、寝ている時ですらも怪獣な子供に日々振り回されました。

世の中の育児中の父母さんには本当に頭が下がる思いです。

そんな友人親子が帰った後、しんと静まり返った部屋でポツンと一人いると、一人の時間があるという贅沢が身に染みます。

一人でいると、どうしても色々と考える時間が生まれます。
そんな『考える』余裕すらできる贅沢を知ることができました。

少し話は逸れますが、現代では様々な本を読むこともでき、インターネットで検索もできる時代なのでインプットには事欠きません。

また、考えたことを文章にして残すこともできる。
さらに、それを人と共有することができる。

考えたことを言葉に変換できる知識、文章として残すことができる技術、更にはそれを他者へ伝えるためのテクノロジー。

様々な知識や技術の集大成で現代のインプット・アウトプットは成り立っています。

そして、今のわたしたちにはそんな自由が許されている。
この事実を知っているのといないので全く意識が異なってくると思います。

自ら選択できる

人は常に選択することで生きています。

朝食を摂るかとらないか、パンかご飯か、何を着て、何を持ち運ぶか。
どんな姿勢でどんな仕事をして、誰とどんな話をして何時に寝るのか。

選択の多さに疲れてしまうと同時に、そんな選択ができる贅沢があるのです。

歴史を遡ってみると、選択する自由がある時代の方が少ないことに気が付きます。

服や履物だって何着も持っているわけではないし、仕事も自由に決めることはできず、恋愛や結婚も自分勝手にできることではなかった。
暮らす場所も自由ではなかったし旅をすることも命懸け。

階級社会だった昔と比較すると、現代ではよっぽど自由になっていると思います。
もちろん職業上では階級がありますが、それですら自分で選ぶことができるのです。

現代のわたしたちだから享受できる特権ですね。
贅沢でありがたいことです。

『いま 自分が ここに いる』という事実

人は必ずいつか死を迎えます。
そして自分の終わり方もある程度選択することができるのです。
これってとても大事なことだとは思いませんか?

有終の美をどのように飾るのか。
自分の最期を自分で選ぶことができるなんて、ある意味では贅沢なことではないでしょうか。

ちょっと大袈裟な話になってしまいましたが、実際の贅沢なんて手で掴むことができないことの方が多いです。
サラサラと手の中から滑り落ちてしまうような脆くて儚いものです。

でも、そんな保つことができないものを意識するのとしないのとでは大きく変わってきます。

贅沢なんて人それぞれ。

物質的な豊かさを享受することが贅沢だと思う人もいれば、人とのつながりや丁寧に生活することに満足を覚える人もいるでしょう。

それはまだ手にしていないのか、すでに手にしているのか。

大切なことは、
『(選択を繰り返してきた結果の)いま、(何者でもなく紛れもないただひとり唯一無二の)自分が、(この時代であるこの瞬間)ここに、(存在して)いる。』

この事実を享受していることこそが贅沢だと認識してほしいのです。

おわりに

最後に、わたしの些細で最高な日々の贅沢を書きたいと思います。

島に、とても小さい島にいる。

朝、鳥の囀りと海のさざなみの音で目が覚めて。
温かいシャワーを浴びて、
洗いたての清潔な服を着て、
履き慣れた靴を履いて。
夜勤のない、自分の好きなように回せる仕事ができて。
好物の卵を使った料理を好きなように作って温かい状態で食べることができて。
島の人と笑顔で挨拶や軽いお喋りをして、
旬の食べ物を食べることができて。
ひとりの時間を好きなように使うことができて。
雨風に晒されることのない、安全な家の中で、
清潔な布団の中、静かに眠ることができて。
人ひとりが暮らせるだけの十分なお給料をいただいて。
遠く離れた家族や友人と瞬時に連絡が取れる。

ちょっとポエムな書き方になってしまいましたが、これがわたしのいま享受できている贅沢です。

ゴージャスなホテルに泊まったり、高級な食事をしたりすることが贅沢に感じることももちろんあります。
でも、これらはわたしの手に余ります。


一番わたしが怖いと思うのは、慣れてしまうことです。

贅沢も、慣れてしまえばただの生活です。

逆に言えば、常に新鮮に感じていれば贅沢はずっと続きます。

だからこそ、心の中はいつも新鮮なものでいっぱいにしておきたいのです。

当たり前を、当たり前だと思わず。

これが、わたしの究極の贅沢です。

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