この池田瑛紗の言葉に、ジャン=ピエール・デュピュイの概念を思い起こした。
客観的な理由としてデュピュイが掲げる事例については著書を読んでもらいたい。ともかく池田瑛紗はいつの日か乃木坂46として消滅することを知っているが、消滅がやって来ていない以上その瞬間までは、消滅はまだ近くないという希望を持つことができる。たとえば、絶望の一秒前に星が微かに光るのは、その星が終わりを遠く離れたところに選んでくれようとしているからだろう。
結局のところ、乃木坂46としての人生をどうするべきなのか?という用心深さこそが池田瑛紗の思考であると感じる。デュピュイはこう続けている。
池田瑛紗がアイドル(ファン)にとってのカタストロフィーともいえる卒業によって消滅していくことを確信しているのは、未来に視点を設定しているからだ。そうした未来のイメージを得ることが必要であり、明日には起きるかもしれない卒業という喪に服すことをしている。
卒業という喪に服すこととは、未来に立って、現在という過去を眺めてみることである。そうすることであの話が間違いになるようにしているのだ。
アイドル(ファン)にとっての卒業は、なにもすべてが最悪の出来事では無い。だから間違いになるようにということだけではなく、新たな可能性を現在という過去へ挿入し、運命そのものを変えようとすることだ。
池田瑛紗は先のインタビューをこう続ける。
池田瑛紗が先のことを想像する余裕がないというのは相反した言葉に思える。しかし、それは破局の対処法を実践したうえで、日々の行為のありかたを考え、時間をループ化させているところに意味がある。それは破局が運命であると、不可避のこととして受け止め、未来へ身を置いて、そこから現在という過去へ遡ること。それがデュピュイが「プロジェクト(投企)の時間」と呼ぶものだろう。
未来への期待とその期待への反応によって池田瑛紗は日々の行為のありかたを決めようとしている。つまり、時間を超えて未来に追いつき、向き合って、実現してほしい未来がすでにそこにあるかのように、いまを行動するということだ。
だから池田瑛紗が乃木坂46として生まれて、乃木坂46として消滅していくことは運命に決定づけられていながらも、その運命は自由に選ぶことができる。これが池田瑛紗は過去を変えることができるということだ。
ところで事後的に必然性が作り出されるということは、ボルヘスがカフカ論で言っているようなことでもある。
池田瑛紗の言葉は先駆者を創り出す。
または、こんな言葉にもあった。
写真に映るマグカップ一つよりも、言葉のほうがたしかに響くこと。池田瑛紗だけではなく、橋本奈々未もデュピュイが提唱する「プロジェクト(投企)の時間」に生きていたアイドルだったのかもしれない。