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池田瑛紗は過去を変えることができる

瑛紗ちゃんにとって、乃木坂46とはどんなものですか。

“凝縮した人生”だと思っています。人って何歳まで生きるのかわからないじゃないですか。私にとってアイドルイコール乃木坂46で、私がアイドルでいられる期間は私が生きている期間より短いことは確実ですよね。アイドルとしての私は乃木坂46として生まれて、乃木坂46として消滅していくんです。

アップトゥボーイ Vol.337

この池田瑛紗の言葉に、ジャン=ピエール・デュピュイの概念を思い起こした。

 数多くのカタストロフィーが示している特性とは、次のようなものです。すなわち、私たちはカタストロフィーの勃発が避けられないと分かっているのですが、それが起こる日付や時刻は分からないのです。私たちに残されている時間はまったくの未知数です。このことの典型的な事例はもちろん、私たちのうちの誰にとっても、自分自身の死です。けれども、人類の未来を左右する甚大なカタストロフィーもまた、それと同じ時間的構造を備えているのです。私たちには、そうした甚大なカタストロフィーが起ころうとしていることが分かっていますが、そ れがいつなのかは分かりません。おそらくはそのために、私たちはそうしたカタストロフィーを意識の外へと追いやってしまうのです。もし自分の死ぬ日付を知っているなら、私はごく単純に、生きていけなくなってしまうでしょう。
 これらのケースで時間が取っている逆説的な形態は、次のように描き出すことができます。 すなわち、カタストロフィーの勃発は驚くべき事態ですが、それが驚くべき事態である、という事実そのものは驚くべき事態ではありませんし、そうではないはずなのです。自分が否応なく終わりに向けて進んでいっていることをひとは知っていますが、終わりというものが来ていない以上、終わりはまだ近くない、という希望を持つことはいつでも可能です。終わりが私たちを出し抜けに捕らえるその瞬間までは。私がこれから取りかかる興味深い事例は、ひとが前へと進んでいけばいくほど、終わりが来るまでに残されている時間が増えていく、と考えることを正当化する客観的な理由がますます手に入っていくような事例です。まるで、ひとが終わりに向かって近づいていく以上のスピードで、終わりのほうが遠ざかっていくかのようです。 自分ではそれと知らずに、終わりに最も近づいている瞬間にこそ、終わりから最も遠く離れていると信じ込んでしまう、完全に客観的な理由をひとは手にしているのです。驚きは全面的なものとなりますが、私が今言ったことはみな、誰もがあらかじめ知っていることなのですから、 驚いたということに驚くことはないはずです。時間はこの場合、正反対の二つの方向へと向かっています。一方で、前に進めば進むほど終わりに近づいていくことは分かっています。しかし、終わりが私たちにとって未知のものである以上、その終わりを不動のものとして捉えることは本当に可能でしょうか? 私が考える事例では、ひとが前へと進んでも一向に終わりが見えてこないとき、良い星が私たちのために終わりを遠く離れたところに選んでくれたのだ、と考える客観的な理由がますます手に入るのです。

ジャン=ピエール・デュピュイ
『極端な出来事を前にしての合理的選択』

客観的な理由としてデュピュイが掲げる事例については著書を読んでもらいたい。ともかく池田瑛紗はいつの日か乃木坂46として消滅することを知っているが、消滅がやって来ていない以上その瞬間までは、消滅はまだ近くないという希望を持つことができる。たとえば、絶望の一秒前に星が微かに光るのは、その星が終わりを遠く離れたところに選んでくれようとしているからだろう。

結局のところ、乃木坂46としての人生をどうするべきなのか?という用心深さこそが池田瑛紗の思考であると感じる。デュピュイはこう続けている。

私がことさらに検討した問いは次のようなものです。すなわち、こうした事例において、用心深さがひとに課すものは何か、という問いです。用心深さはここで、ひとつの行動原則をひとに課します。それは、楽観主義的になってよい客観的理由があればあるほど、カタストロフィー主義に則り、用心して身構えていなくてはならない、というものです。なぜなら、終わりがおそらく近づいているからです。この矛盾的な命令は、楽観主義がある水準においては合理的だが、カタストロフィー主義はそれを超越するもうひとつ別の水準において合理的なのであ り、それはカタストロフィー主義がすでに終了した出来事の流れに対して視点を設定することを本質としていて、今まさに展開されつつある出来事の流れに対してではないからだ、ということを理解すれば、理論上は解消されます。私は自分がいつか必ず死ぬことを知っていますので、私がもはや存在せず、私が存在したことになっている(前未来形)時が来ることを確信しています。このような形式の用心深さこそが、私が「啓蒙カタストロフィー主義」と名づけたところのものなのです。そうした用心深さは、思考によって、破局的な出来事が勃発したあとに自分自身を投影し、思いがけない出来事と思いがけない出来事が起こる確実性とを結びつけるこうした視点から、辿られた道筋を直視するように仕向けます。啓蒙カタストロフィー主義とは、フランス語が前未来形と呼び、英語が未来完了形(future perfect)と呼ぶ、非常に興味深いこの文法形式の賢明な使用法なのです。前未来形は、通常の未来形が持つことのない、どのようなパーフェクトなものを持っているのでしょうか? それは、過去形が自分のために取っておくつもりだった、確定性と不動性という二つの特性を未来に対して与える、という驚異を成し遂げてみせるのです。

ジャン=ピエール・デュピュイ
『極端な出来事を前にしての合理的選択』

池田瑛紗がアイドル(ファン)にとってのカタストロフィーともいえる卒業によって消滅していくことを確信しているのは、未来に視点を設定しているからだ。そうした未来のイメージを得ることが必要であり、明日には起きるかもしれない卒業という喪に服すことをしている。

ドイツの哲学者ギュンター・アンダース(一九〇二〜九二)は、二〇世紀の一大破局について最も深くかつラディカルに考察した思想家だった。(…)アンダースは体系的な大部分の論考よりも、むしろ寓話の形式を好むことが多かった。彼は一度ならず、洪水の神話を次のような独特の語り口で語ってみせる。
ノアは、不幸の予言者を演じて、起こりもせず誰も真面目に取り合わない破局をひたすら告げることに疲れてしまっていた。そんなある日のことである。

彼は古い粗衣を身に纏い、頭から灰をかぶった。これは、愛する子供か配偶者を亡くした者にしか許されていない行為だった。ここぞというときの衣装を身につけ、苦しみを演じながら、ノアは再び街に向かった。住民たちの好奇心、悪意、妄信を、うまく逆手に取ってみせるぞと覚悟を決めていた。ほどなく、ノアのまわりには野次馬たちが群がってきて、口々に質問を浴びせ出した。誰か亡くなったのか、誰が亡くなったのか、と人々は尋ねた。ノアは、多くの人が亡くなった、しかも亡くなったのはあなたたちだと答え、聴衆はこれに大笑いした。「その破局はいつ起きたんだ?」と尋ねられると、ノアは「明日だ」と答えた。
人々がいよいよ注視し、狼狽すると、これに乗じてノアはもったいぶって立ち上がり、こう語った。「明後日には、洪水はすでに起きてしまった出来事になっているだろうがね。洪水はすでに起きてしまったときには、今あるすべてはまったく存在しなかったことになっているだろう。洪水が今あるすべてと、これからあっただろうすべてを流し去ってしまえば、もはや思い出すことすらかなわなくなる。なぜなら、もほや誰もいなくなってしまうだろうからだ。そうなれば、死者とそれを悼む者の間にも、なんの違いもなくなってしまう。私があなたたちのもとに来たのは、その時間を逆転させるため、明日の死者を今日のうちに悼むためだ。明後日になれば、手遅れになってしまうのだからね」。こう言って彼は自宅に戻り、身につけていた衣服を脱ぎ、顔に塗っていた灰を落とし、自分の工房に入っていった。晩になると、一人の大工が扉をたたき、こう言った。「方舟の建造を手伝わせてください。あの話が間違いになるように」。さらに夜が更けてくると、今度は屋根職人がこう言って二人に加わった。「手伝わせてください。あの話が間違いになるように」。

ジャン=ピエール・デュピュイ
『ツナミの小形而上学』

卒業という喪に服すこととは、未来に立って、現在という過去を眺めてみることである。そうすることであの話が間違いになるようにしているのだ。

アメリカの先住民にはきわめて美しい次のような箴言が残されている。「大地は子孫が貸してくれたもの」。当然ながらこの箴言は円環的な時間概念を彷彿とさせる。それはもはや私たちの時間概念ではない。けれども私は、時間の再概念化という作業を完遂させるという条件つきで、その箴言は直線的な時間概念においてこそ、いっそうの力をもつと考える。私たちの「子孫」、つまり果てしなく続く、私たちの子供たちの子供たちは、物理的にも法的にも存在はしていない。けれどもこの箴言は、時間概念をあえて逆転させることによって、私たちが守るべきものとしての「大地(地球)」をもたらしてくれているのは子孫たちなのだ、と考えるように命じている。私たちは自然の所有者なのではない。私たちにはその用益権があるのみなのだ。私たちはそれをどこから受け取ったのだろうか?未来からだ!「そんな話には現実味がない!」と誰かが答えたところで、それは、未来の破局をめぐるいっさいの哲学的思考をつまずかせる石を指し示すことにしかならないだろう。私たちは未来に対して、十全な現実の重みを与えることなどできないのだから。
ときにその箴言は、時間概念を逆転させているだけではない。時間をループ化しているのだ。生物学的に、またとりわけ道徳的に、私たちの子孫をもたらすのはほかならぬ私たち自身である。ゆえに箴言は、私たち自身を未来へと投影し、私たちの現在を、自分たち自身が生み出してしまったものという観点から眺めるよう促している。自己意識のような形をとるこうした二重化を通じてこそ、私たちはおそらく、現在と未来との相互関係を確立することができるだろう。未来はあるいは私たちを必要としていないかもしれない。だが私たちは未来を必要とする。未来こそが、私たちのあらゆる行いに意味を与えるのだから。
ギュンター・アンダースの寓話の中でノアが行っているアプローチの意味は、まさにそのようなものだ。まだ生じていない死者を悼む場面を演出することで、その寓話は時間を逆転させている。あるいはむしろ時間をループ化していると言ってもよい。したがってそれは時間を否定し、永遠を現在へと変容させてもいる。けれども、不幸の予言者が被る不幸はそれで終わりにはならない。予言は正しいこともある。だがその場合でも人は、たとえ告げられた不幸の原因は予言者だと糾弾しないまでも、予言者は快くは思わない。
予言が成就せず、破局が訪れないこともある。その場合、人は後から、予言を信じてもらえないカッサンドラを演じた予言者の態度をからかうだろう。けれどもカッサンドラの場合は、その言葉が人々に届かぬよう神から宣告を受けていたのだった。人は、破局が訪れなかったのは告知がなされて聞き入れられたからだ、というふうには決して考えないのである。ヨナスもこう記している。「不幸の予言が告げられるのは、その不幸が現実のものとならないようにするためである。後になって、最悪の事態にはいたらなかったことを指摘して、警鐘を鳴らした人々を揶揄するのは不当さの極みだろう。彼らの失敗が功績になっているかもしれないのだから」。
不幸の予言がはらむ逆説とは次のようなものになる。破局の予測が信頼できるものであるためには、未来に刻まれるその「存在する力」が増大しなければならない。告げられる苦境や死者が、容赦ない宿命として不可避的に生じるのでなければならない。現在がその記憶を保持し、破局の後に思いをはせることができなくてはならない。文法用語でいう前未来の時制でその出来事が扱われるのでなくてはならない。それはつまり、破局は起きて「しまっているだろう」と言えるための、視点をなす瞬間が存在するということだ。それがすなわち「明後日には、洪水はすでに起きてしまった出来事になっているだろう」ということである。けれども、一方であまりにもスムーズにそうした事が運べば、その本来の目的が見えなくなってしまっているだろう。それはまさしく、破局が「起きないようにする」ための意識と行動を呼び起こすことである。「方舟の建造を手伝わせてください。あの話が間違いになるように」。

ジャン=ピエール・デュピュイ
『ツナミの小形而上学』

アイドル(ファン)にとっての卒業は、なにもすべてが最悪の出来事では無い。だから間違いになるようにということだけではなく、新たな可能性を現在という過去へ挿入し、運命そのものを変えようとすることだ。

強くなりたい
乃木坂46にふさわしいように

池田瑛紗は先のインタビューをこう続ける。

そのアイドル人生は、どんな風に過ごしていきたいですか。

前は“太く短く”と言ったのですが、そんなにすぐに卒業しちゃうの?と誤解されてしまったりもしたので取り消します(笑)。決して短くはないのですが完全燃焼したいです。少なくとも、後々のことを考えてスタミナを温存するような真似はしたくない。今は目の前のことだけを考えています。今の私に1年先のことを想像する余裕はないです。日々全力で楽しみ、頑張りたい。それだけです。

アップトゥボーイ Vol.337

池田瑛紗が先のことを想像する余裕がないというのは相反した言葉に思える。しかし、それは破局の対処法を実践したうえで、日々の行為のありかたを考え、時間をループ化させているところに意味がある。それは破局が運命であると、不可避のこととして受け止め、未来へ身を置いて、そこから現在という過去へ遡ること。それがデュピュイが「プロジェクト(投企)の時間」と呼ぶものだろう。

未来への期待とその期待への反応によって池田瑛紗は日々の行為のありかたを決めようとしている。つまり、時間を超えて未来に追いつき、向き合って、実現してほしい未来がすでにそこにあるかのように、いまを行動するということだ。

予防とはつまり、望ましくない一つの可能性が、現実化していない数々の可能性から成る存在の次元へと送り込まれるようにすることをいう。だが破局は、たとえ現実化していないとしても、可能性のとして地位は温存される。これは、まだ現実化が可能だという意味ではなく、現実化していたかもしれなかったということが永遠に真であり続ける、という意味である。「回避のために」破局が迫っていると告げるとき、その告知は厳密な意味としては「先—見」としての地位をもたない。その告知は、未来がどうなるかを告げてはいない。単に、警戒していなければ起きていたかもしれないことを告げているのみである。
ここには閉じた関係をなす、いかなる条件も入り込めない。告げられた未来は、実際の未来とは一致せずともよいし、予測は実現しなくてもよいのだ。なぜなら、告げられたり先取りされたりする「未来」は、実際には未来そのものではまったくないからだ。それは、現実化せず、現実化しないままでいる可能世界にすぎない。この構図は私たち馴染みのものだ。なぜならそれは、私たちの「通常の」形而上学に対応しているからである。そこでは時間は枝分かれしていき、ツリーの形状を取る。そのツリーの内部を進んでいくのが現実世界だとされる。詩人のうちで最も形而上学者的であり、形而上学者としては最も詩人的であったホルへ・ルイス・ボルヘスを引用するなら、時間とは「小道が枝分かれする庭園」なのである。
ギュンター・アンダースの寓話に暗示されている形而上学は、明らかに別の種類のものである。そこでは時間はループの形状をなし、その中で過去と未来がお互いを決定し合う。未来は過去と同様に固定されたものと考えられている。「その破局はいつ起きたのかと尋ねると、彼は明日だと答えた」、つまり未来も過去も同様に必然なのだ。「明後日になれば、洪水は起きてしまった出来事になっているだろう」、つまり未来は運命や宿命に属する事象なのである。ということは、現在と未来のどちらの一部をもなさない出来事はすべて、不可能な出来事ということになる。するとここから直ちに次のようなことが導かれる。つまり、こうした時間概念にあっては、用心は予防の形を取ることはできないのである。繰り返しになるが、人が警告するような望ましくない出来事は現実化していない一つの可能性である、ということが予防概念の前提となる。私たちに行動する理由が与えられるためには、その出来事は可能なものでなくてはならないが、もし私たちの行動が効果的なものであれば、その出来事は現実化しないというわけだ。これは、不幸の予言が前提とする時間概念では考えられない。
不幸の予言に見られる、破局の形而上学的地位はきわめて逆説的だ。だが、そうはいっても、それは西欧的意識にとっては馴染みの人物像と共鳴し合う。破局的な出来事はもちろん運命として未来に刻まれている。だが、偶発的な事故としても刻まれているのである。たとえ前未来の形で必然のように見えるとしても、その出来事が起こらないこともありえたのだから。ここでいう形而上学とは、名もなき人々、素朴な人々、パスカルならば「不器用な人々」と称するような人々の形而上学だ。たとえば災害などの際立った出来事が起きた場合、それはまさに起きるべくして起きたと考える考え方である。
一方でその形而上学は、その出来事が起きていない限り、それは不可避ではないとも考える。したがって必然性は、出来事の現実化、その出来事が起きたという事実によって事後的に作り出されるのだ。
破局の時代に適した用心の基礎となるべき形而上学は、破局の後に続く時間に「みずからを投影」し、その破局の中に「必然であると同時にありそうにない」出来事を遡及的に見出すような形而上学である。

ジャン=ピエール・デュピュイ
『ツナミの小形而上学』

だから池田瑛紗が乃木坂46として生まれて、乃木坂46として消滅していくことは運命に決定づけられていながらも、その運命は自由に選ぶことができる。これが池田瑛紗は過去を変えることができるということだ。

 

ところで事後的に必然性が作り出されるということは、ボルヘスがカフカ論で言っているようなことでもある。

ありようを言えば、おのおのの作家は自らの先駆者を創り出すのである。彼の作品は、未来を修正すると同じく、我々の過去の観念をも修正するのだ

ホルヘ・ルイス・ボルヘス『カフカの先駆者たち』

池田瑛紗の言葉は先駆者を創り出す。

——自分の生きていく場所は、あくまでも乃木坂46だとお考えですか?
橋本 いつか、もしアイドルブームが終焉を迎えるときが来るとしたら、そのときは、乃木坂46の橋本奈々未として沈んでいきたいと思っています。乃木坂46というアイドルグループの一員としての自分が終わっていくことは、すんなり受け入れられると思うので。
——乃木坂46と添い遂げたい、ということですね。
橋本 ここが”自分の死に場所”といったら大げさかもしれませんが。

BUBKA 2015年9月号

または、こんな言葉にもあった。

・好きな言葉
→人は必要な時に必要な人に出会う

5期生 公式ブログ あひるの夢 池田瑛紗

人は必要な時に必要な人と会うと思ってます。

『橋本奈々未のGIRLS LOCKS!』2017.02.23

写真に映るマグカップ一つよりも、言葉のほうがたしかに響くこと。池田瑛紗だけではなく、橋本奈々未もデュピュイが提唱する「プロジェクト(投企)の時間」に生きていたアイドルだったのかもしれない。

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