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乃木坂46が髪を切るとき

乃木坂46が髪を切るという行為に、意味を探さずにはいられなくなるのはなぜか?

それはまずもって『おいでシャンプー』があることを事由とするのかもしれない。

長い髪のシャンプーの香りにときめいている僕は、その匂いが夏の陽射しと風に運ばれてくることを待っている。そして君が振り向いたとき、匂いは揺れた髪によって届く。ここには嗅覚というシステムの優れた点をみることができる。

生物が、外部環境を識別するために発達させた感覚機能には、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の5つがあります。いわゆる「五感」です。そのなかであえて順位をつけると、生物学的に一番重要だと考えられる感覚は嗅覚です。その理由として、まず「こちらからコンタクトしなくてもその存在が確認できる」という点があげられます。たとえば視覚であれば、対象物が自分の視野に入ってはじめて認識することができます。味覚の場合は、対象物を口に入れる、というこちらからの積極的なコンタクトが必要になります。しかし嗅覚はどうでしょう。嗅覚は、相手が見えなくても、接触しなくても、そのにおい物質が空気中を拡散して伝われば、その存在を認知できるシステムになっています。

日本アロマ環境協会 インタビュー 福岡伸一

匂いは「こちらからコンタクトしなくてもその存在が確認できる」ものであり、よって僕は「君の予告」を感じられる。それがあってこそときめきを心のページに記憶することができるのだ。このようにして乃木坂46という物語のプロローグから髪に傾向していたことが分かる。

そもそも髪は人間との深いつながりがあることを考えなければいけない。

人間の髪の毛はその人間との〈緊密な関係〉を保つと考えられている。髪を切ってもそうである。髪の毛はその人の特性を霊的に凝縮し、その人の個性を象徴する。その人とは「親和力」の絆で結ばれているからである。(…)ことに髪の房の信仰が生まれるが、ここには崇拝の行為ばかりでなく、固有の効能にあずかろうとする欲求も含まれている。(…)このような行為は思い出を永く留める以上の意味がある。髪の毛を持っていた人物のその時の状態を存続させようという意志のようなものを示しているからである。

ジャン・シュヴァリエ、アラン・ゲールブラン
『世界シンボル大事典』

髪はその人間との緊密な関係を保ちながら親和力という絆で結ばれている。だからこそ髪を切るという行為には感情的な出来事が付随するのだ。

乃木坂46においては堀未央奈がドキュメンタリー映画のなかで、伊藤万理華が個人PVのなかで、北野日奈子が写真集のなかで、髪を切った。

ドキュメンタリー映画のなかで、西田尚美のナレーションで語られる「乃木坂を辞めるか、髪を切るか」という母親の言葉。堀未央奈は覚悟と挑戦の選択をする。

2年前の3月28日、
すっぴんボサボサで
洋服も興味が無くて
常にボケ〜としていた
17歳の私が乃木坂46の2期生
最終オーディションを
受ける為に東京へやって来ました。
控え室は沢山の参加者で
溢れていてみんなキラキラした
洋服を着てメイクも髪型も
可愛くて私絶対落ちるって
思ったのを覚えています。。
(…)
2015年3月28日2期生誕生日
心機一転、髪をばっさり
ボブに切りました!!
ロングが好きと言って下さった方は
ごめんなさい。
でも、どうしてもこの3/28で
新たな私も出していきたいというか
ここで1つ節目を作りたくて...
私なりのやる気です。
今年は勝負の年にしたい!
新たな気持ちとやる気を持って
もっともっと前へ進めるように
皆さんと一緒に頑張りたいです♪

3年目 | 乃木坂46 堀未央奈 公式ブログ

今年1番大きかった出来事は
髪をばっさり切った事です。
初期からずっとロングヘアーで
切る予定も無かったけど、ふと春頃に
自分の実力とポジションが伴っていない
気がしてモヤモヤしていました。
2期生の代表として。とか元センターとして
とか色んな期待をしていただけるのは
嬉しいし期待に応えられるように
私も全力で頑張りたいと思っていたけれど
客観視したら自分はセンターから始まって
それから徐々にポジションが下がっていって
私が望むアイドル人生は上から下ではなく
下から上だったので理想と現実のギャップと
自分にはもう無理かもしれないって
ネガティヴになる一方でした。
乃木坂を辞めるか髪をばっさり切るか
迷った挙句、ファンの皆さんとまだ
叶えられていない夢が沢山ある事と
弱い自分から逃げようとしている自分が
いる事に気付いて、髪を切って心機一転
する事にしました!
それからすぐに選抜発表があり
初めてアンダーメンバーになり
正直、沢山悔しい思いもしました。
ファンの方が握手会とかコメントで
今年は勝負の年にしようね!とか
絶対選抜上がろうね!って
言ってくださっていたのに
期待に応えられなくてごめんなさい。
私も今年を振り返っていて
とても悔しい出来事が沢山ありました。
でも、今年アンダーメンバーになって
色んな経験をさせていただけて今までで
1番成長できた年なんじゃないかなと
思います。

2015 | 堀未央奈 公式ブログ

つまり、堀未央奈は「新たな私」となるために髪を切る。それは自分を一度殺すということでもある。

換言すれば、彼女たちの断髪は社会関係の網目に絡めとられた自己を一度殺した上で自分の望む新たな関係のなかに再生させるための行為であった。

安井海洋『女が髪を切るとき』

たとえば『バレッタ』のMVで白石麻衣を撃ち殺したあとに堀未央奈は「だってこうするしかないじゃない」と嘆き、その画面が暗転して銃声が鳴り響くことは自分を殺すということではないだろうか。

堀未央奈の持つ拳銃は、髪を切るための道具としての〈鋏〉に取って代わられることもある。

すでに自分が少女にとって愛の対象ではなく、殺害対象のレベルに落ちたことを直感するのは行方をくらませた彼女を追って、ついに探し当てたときである。会ったとき、彼女が走らせた目線の先にあるのは〈鋏〉だ。それまでは主人公を護るという名目でキッチンナイフで殺人を犯し、あなたのためにやったのよ、とすがってきた少女の目が、突然あらわれた自分を前に動揺、彼女の視線が〈鋏〉の場所の確認に至った。アリーのこの視線が意味するものは、関係の終焉、そして殺意。主人公は彼女との幕引きを決断するのである。『Pierrot le Fou』でもアンナ・カリーナが手にする〈鋏〉がヴィジュアル・ショックとして使われたことに留意したい。
(…)
 ゴダールには原作が、自分にとってあまりにも切実な問題を扱っていることがわかっていて、衒ってみせた、と言うしかない。
どういうことか?
 ゴダールにとってのミューズ、アンナ・カリーナとの出会いから最終的決別に向けて、積年のリアルな感情吐露の場をホワイトの原作が与えたのだ。ゴダールは自らの〈妄執〉を撮影現場で激しく意識せざるをえなかった。
 アンナ・カリーナは、一度は愛し、愛されたものの手で殺されなくてはならない

滝本誠『映画の乳首、絵画の腓』

関係の終焉が訪れ、最終的な決別に向け、髪も一度はその人間を愛し、愛されたものの手で切られなくてはならない。

しかし、髪はその人間と深いつながりがあるからこそ苦しむ。そしてついには反旗を翻そうとする。

青木崇高「(髪を)切る直前になると、髪の毛が命乞いのようにツヤツヤしません?」

セブンルール #78

髪は切られることを嫌がって命乞いをし始め、艶を出すようになるのだ。そのようにして乞うこととは、やはり恋愛を意味する。

こゝに予め、説かねばならぬ一つは、恋愛を意味するこひなる語である。

こひは魂乞ひの義であり、而もその乞ひ自体が、相手の合意を強ひて、その所有する魂を迎へようとするにあるらしい。玉劔を受領する時の動作に、「乞ひ度す」と謂つた用語例もある。領巾・袖をふるのも、霊ごひの為である。又、仮死者の魂を山深く覓め行くのも、こひである。魂を迎へることがこひであり、其次第に分化して、男女の間に限られたのが恋ひであると考へてゐる。うたがきの形式としての魂ごひの歌が、「恋ひ歌」であり、同時に、相聞歌である。

折口信夫『日本文学の発生』

だから髪が命乞いすることは、その人間に恋することである。お互いを愛しているのに、いや愛しているからこそ、するべきことがある。

孤独な君は、愛する者の道を歩いている。君は、自分自身を愛している。だから君自身を軽蔑している。それは、愛する者だけが知っている軽蔑の仕方だ。愛する者は、軽蔑しているから、創造しようとするのだ!自分の愛しているものを軽蔑しなくてすむような人間に、愛の何がわかるのだろう!

フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラ〈上〉』

「新たな私」を創造するためには、愛する者だけが知っている方法で軽蔑しなくてはならない。

そのようなことは『女の髪』と題された伊藤万理華と矢島沙夜子のコラボレーションによるビジュアルストーリーからもうかがえる。

「さよなら」
そうして彼女が幼い髪を切り落とすと
髪は黒い鳥になって、羽根を広げて泣き出した。「信じられない仕打ち、気が狂いそう」
彼女が別れの手紙を書くと
鳥は泣きながら、文字をついばんだ。
彼女は言った。
「あなたのことは大好きよ、
でもこれ以上、一緒にいられない」
やがて空が降りてきて、
本当に”お別れ”の時なのだとわかると
鳥は飛び立っていった。
「黒い鳥、少し前の私。さようなら。
あなたのことは忘れない

装苑 2018年 11月号

「新たな私」である彼女は「少し前の私」である黒い鳥=髪を大好きだからこそ、一緒にはいられない。そのようなアンビバレントさは必要なのだ。

もっとよく触れるために離れること、そこにグルードの美学があった。隠遁の美学であり、シトー派隠者トマ・メルトンの考え方に近いものだった。ほかの人々から離れ、そしてピアノそのものからも離れること。(…)彼はこうも言っている。「ピアノ演奏の秘密は、ある程度は、いかに楽器から離れるか、そのやり方のうちにある。」

ミシェル・シュネデール
『グレン・グールド孤独のアリア』

髪とその人間は、切るという行為によって別れる。ただ「サヨナラ」は「Stay with me」のためにあり、「Stay with me」のためには「サヨナラ」が必要なのである。

それが髪を切るという行為の秘密であった。

そうして伊藤万理華が個人PVのなかで歌ったように「Brand New Day」=新しい一日がはじまる。

〜余談〜

『伊藤まりかっと。』の「り☆り☆り☆スタート(よーいどん!)」という歌詞の場面ではスターターピストルを撃つ振り付けをする。

耳を塞ごうとする左手があきらかに拳銃を形作っていることは、これもまた自分を殺そうとしていることにほかならないだろう。

〜閑話休題〜

髪を切るという行為によって離れたことがよく触れるためにあったことを忘れてはいけない。

現地の美容院で髪を切りました。最初、髪を切ることで、今の自信のない自分から大きく変わることを期待されたらどうしようという不安の気持ちでいっぱいでした。なので、切ることについてはギリギリまで悩みました。結局すごく短くはしなかったけど、ファーストカットは自分の手で行って、髪を切りました。その後、夜の街を全力で駆け回りました。切った後は少しだけ髪の毛も心も軽くなった気がしました。
(…)
このロケに行く前は、「楽しい」とか「嬉しい」のように感情が動くことが少なくなっていました。でもスウェーデンの風景や圧倒的な大自然を前にして、感情や言葉が溢れてくる感覚を取り戻せた気がしました。自分の世界から思い切って飛び出してみて、「自分にも誰にもこの悩みはどうしようもできない」と思っていたのに「この悩みには解決方法があるかもしれない」と思うようになりました。
(…)
もちろんスウェーデンに行ったからといって、全てが好転したわけではありません。でも、どんな自分も「これが私だから」と丸ごと受け入れることにしました。自分に「これくらいはできるだろう」と期待して、その結果に一喜一憂することはやめたんです。

乃木坂46 北野日奈子 1st写真集『空気の色』

ようやく「新たな私」も、「少し前の私」も、「これが私だから」と受け入れるようになる。

もっとも北野日奈子が写真集のインタビューで「人は過去を変えることはできないけど 過去の持つ意味を変えることはできる」と語ったことに真意がある。

過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。

中井久夫『徴候・記憶・外傷』

つまり、髪を切るという行為は過去を変えることができるのだ。しかも個人の歴史だけではない。

もうずいぶん前のこと。視覚に障害をもっている方々と長年対話を続けられているある学者さんから、髪型についての興味深いお話しを聞いたことがあります。そうした方の多くにとって、髪というのは感覚器のひとつだというのです。たとえば傍らに柵が並ぶ道を歩くと、格子を抜けた風が髪を撫でます。その時、風上側に規則的に並ぶ柵は、かすかにゆれる髪を通じて「縞々の風」として感受されている。どうやらそんな感じらしいのです。その人が何気なく言った「縞々の風」という表現が、ずっと記憶に残っています。街という複雑な立体物が作り出す、いろいろな風のかたち。細長い風、薄っぺらい風、まんまるの風、ビッと尖った風。さまざまなかたちとリズムで髪を揺らす風が、脳内に描き出す風景の中を歩く。だから髪型を変えることは、この感覚器を通じて自分のなかに広がる風景の記憶を、別のかたちへと変質させてしまうことに等しいんですよ。確かそんなふうな説明を聞いて、びっくりしたことを憶えています。髪を切ると、自分の姿ではなく、世界のかたちが変わってしまうのですから。

中山英之髪型について私が知っている二、三の事柄

それは世界のかたちをも決定的に変えてしまうということだ。髪を切るだけで、どこかのセカイ系のようなファンタジーは広がってしまう。伊藤万理華が「ここは乃木坂 わたし乃木坂」と名乗ることは、その世界で生きていくことの宣言である。

剃っても刈っても生へるのが髯である

小津安二郎『淑女と髭』

だが然し髪は切っても切っても生えてくるだろう。

大叔父に巻毛をひっぱられたときのような恐怖をふたたび覚えた。そうした恐怖は、巻毛を切った日——それこそ私にとって新しい時代が始まった日だが——その日以来消え去ってしまったものなのだ。ところが、眠っている間は、髪を切ったそんな日のことなどは忘れはてている。そして大叔父の手から逃れようとしてやっとうまく目をさました瞬間に、その日のことが思い出されたのだ。

マルセル・プルースト『失われた時を求めて』

また髪が伸びて、いつかの日のことを思い出すその時まで・・・

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