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なんで英語をやろうとしたか 3

今日はオーストラリア語学留学編

1989年1月7日にわたしはオーストラリアに出発しました。興奮でドキドキして眠りにつけなかったのだけど、朝、目を覚ましたらテレビのニュースで『昭和天皇崩御』のニュースやってたという、忘れられない旅立ちの朝だったの。

成田空港からシドニーへなカンタス航空で飛んだのだけど、当時わたしは外国どころか飛行機に乗るのも初めて。どんなに緊張してたか想像できるかな。
ここで、わたしは英会話集を片手に、「飛行機の中で英語を使ってみる」という目標を立てた。  
「この席だと映画がよく見えないから座席を変えてください。」って感じのことを一生懸命に英作文して言ったんだ。どういうふうに言ったかは覚えてないけど。
とりあえず、これは成功。自分の中でステージ1クリア。
シドニーの空港からホームステイ先へもタクシーに乗って自分で行った。学校が提供してるピックアップサービスなんか意地でも使うもんかって思ってた。
これでステージ2クリア。
あとからわかったことだけど、このとき何故か手違いで、わたしの出迎えサービスが手配されてて、わたしは自分勝手に行動した日本人ってことになってたらしいけどね。
こうしてひとつづつ、英語が通じたっていう実績を積み重ねていって、自信をつけていったのでした。
で、2ヶ月目にはホストファミリーとケンカして出ていけるくらいになれたもんね。

でも、シドニーでの3ヶ月は、初めての外国ってこともあって不安がいっぱい。
中級クラスで学んだけど、学生の半数は日本人だったし、いつも日本人の仲間とつるんでた。
「留学したって、日本人とばかりつるんで、結局英語喋れないまま帰国する使えないやつが多いからな。せいぜいそうならないように祈るよ。」と、バイト先の社長に言われてたのが、頭から離れなかったけど。
でも、海外旅行慣れした日本人の友人たちのおかげで、ホテルやレストランの予約、観劇、切符の手配などを自分たちですることを覚えられたからよしとしよう。

「最初の3ヶ月だからいいの、いいの。
このあとメルボルンの学校に行ったら、もっとまじめに英語やるもん!」
そんなふうに考えていた、半分観光客みたいな3ヶ月のシドニー滞在でした。

メルボルン編に続く

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