ピンチヒッター、25番 エピローグのようなもの


前回(https://note.com/atsugi_blue/n/n21c4100629ab)の続きです。よければそちらを先にご覧下さい。


ベンチスタートで代打の出番を待っていた彼だが、結論を言うと、そのバットから快音が響くことは無かった。

最後の夏、普通ならば目を腫らして整列し方々に感謝を伝えるのが恒例であるが、彼の心中に無念は一切なく

ただ虚しさであった。やり切って叶わなかったのが無念と言うならば、彼はそのスタート地点にすら立てていなかったのである。




それから8ヶ月、彼の姿はバッティングセンターにあった。グリエルのフォームを参考にしたスイングは大学受験の鬱憤を晴らすかの如く快音を連発させていた。



3年間で2度壁にぶつかり理解したことは、人間は追い込まれると極端に視界が狭くなるということである。

野手転向後に遊びでピッチングすると投手時代よりコントロールが改善され、部活引退後の方が打球が飛ぶのであるから、「一度離れてみる」という選択肢は非常に良いものである。




先日、中学では僕とバッテリーを組み高校でも二塁手のレギュラーを務め5年間チームメイトだった河原という友人から通話の誘いが来た。

高校時代、河原は不振に喘ぐ僕を揶揄し、もっと言えば僕を自分の可能性の中の中に押し込めたエース一派の人間なのであまり良い印象を持っていなかったが、そうとう病んでいるようで「愚痴らせてくれ」という第一声から話を聞くことにした。

河原は大学でラグビー部に入り、現在3年で様々な役職を担当している。

しかしイベントに協力しない同級生や責任感の無い後輩に頭がパンクしそうであり、中学時代の部長(僕)や高校時代の部長の苦労がようやく分かった、というのである。

「5年間、色々やって悪かったな…」 

謝られても困る。

ソフトボールは今でも好きであるし、河原のような一部の戦友とも未だに繋がってはいる。

ただ、あのソフトボール部という空間は何か人をおかしくさせてしまう力があった。それは河原ら一派の気の抜けた練習姿勢だったり、25番の体格に似合わぬ窮屈なスイングに現れていた。

思うに、僕は人間・河原は嫌いでは無いが ソフトボール部・河原は嫌いなのだ。


当時のソフトボール部のメンツは河原の例に漏れず大学進学後も運動部活動に身を投じた者は多い。繰り返すが、僕はソフトボールは好きだ。

しかし、あのソフトボール部───運動部なら珍しくないかもしれないが、あの空気の中で生きるのに僕は疲れてしまった。 

かくして自分の中にある文化部的精神を確固たるものにすべく、こうして部活動の経験をnoteに書き出した次第である。


おしまい


※この作品は一部フィクションかもしれない。



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