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私がタイカレーを食べる時。

「バンタイ、いく?」

前日の深酒+終電を逃したせいでのネカフェ泊が体に応えた水曜日。定時少し過ぎに同期から、新宿で今をときめくタイ料理に行かないか、というラフな誘い。事前に取り付ける約束に胸をワクワクさせるのも好きだけど、「今から行かない?」っていう突然の誘いが私は好きだ。予測不能だったワクワクに、アドレナリンが止まらない。

なんだか気が進まない上に捗りそうもない、締め切りがしばらく先の仕事を最低限終わらせて、パソコンをシャットダウンする。忘れ物をして、同期と先輩には先に店に向かってもらいながら、アジア料理に思いを馳せる。

「あぁ、この前は何を食べたっけ。麺だったかな。」

歌舞伎町の雑居ビルの中にある、外からは中の様子が窺えない不思議なお店。多い席数にも関わらず、平日の夜でも待たなきゃ入れないほどには人気。暖色系の電球も、少し鄙びた木製のテーブルやソファも、なんだか少し暑くてむっとした東南アジアを思い出させる。スパイスの香りに心を踊らせる。新宿というカオスな街も、タイを連想させるには十分な雑多さだった。

店について席につく。向かいの先輩が「グリーンカレーにしようかな」そんな言葉を聞いてしまい、私の口もカレーの口になってしまった。その日のお昼はワンタンメンを食らったのに、私のお腹はペコペコだった。外食続きにほんの少し罪悪感を覚えながらカレーの注文を終える。タイ米を食らったことがなかったので、この機にタイ米にチャレンジした。二日酔い気味だったこともあったから、今回シンハー(さっぱりを通り越してなんだか少し薄い気がするタイのビール)は我慢。

同僚はとても知的で、無言のコミュニケーションがうまい。コミュニケーションがない沈黙ではなく、大袈裟かもしれないが、沈黙の間にも目や顔や息づかいが微妙なニュアンスのコミュニケーション。超音波で話すイルカってこんな感じなのかな、とか思ったり。最近の悩みを職場の同僚に話そうかどうか迷う。

ーーー人はなぜ、「立場」が違うだけでお互いを全く違う生き物だと思ってしまうのだろう。立場なんて脆くて、ちょっとした出来事で変わってしまうのに。私が「悪だ」と思っていることを「正義だ」と思っている人自体が悪なのではなく、人は基本的には皆同じで、育ってきた環境が違うから判断軸が違って、今置かれている状況が違うから見えるものが違って、見えるものが違うから判断材料そのものも違うから、違う判断をするだけで。悪なのは、正悪なんて状況によって変わるってことを分かってすらないことだと私は思う。

立場を使い分ける私の仕事は、確実に私を疲弊させていた。仕事によって立場を変えて仕事するなんて、うまくやれてる自信なんて1ミリも湧いてこない。

それでも社会は容赦してくれない。いつだって私に正しさや意志を求めてくるし、正しさなんて誰も知らないくせに、私の軸がブレることを許してくれないのだ。でも、軸を揺さぶりかけてくるより、軸を私の中に探してくれるのが、私の今の環境が幸せな証拠。

一生出てこない問いと私は共生している。そんな悩みと一緒にやる仕事は疲れる。闇の中にいるようで、いつもたった独りのようで。

………それでもタイカレーはうまい。日本のカレーも悪くはないが、異国の刺激的なスパイスが頭の中のモヤを払ってくれる気がする。タイ米はココナッツオイルこようなものと混ぜて炊かれているのか、ココナッツライスを注いだ後の食器で盛り付けられたからかどちらかわからないがほんのり甘い香り。スプーンでパラパラとほぐれていくライスが、私の心も一緒にほぐしてくれる。

スパイスの香りでモヤが晴れた感覚で、ふと思い出した。そういえば、大学生でドン底にいた時にもタイカレーを食べた。インターン先の社員さんが、落ち込んだ私を見かねてタイカレー教室に誘ってくれた時。あの時も、程よい辛さや刺激が私を救ってくれた。食べるだけじゃなく、作る過程からスパイスの匂いがたちこめて、嬉しかった。あの時の写真は、まだハードディスクに残っているだろうか。

料理教室で使ったナンプラー。新しい味付けが新鮮だった。
作ったカレー。ベースは甘くてコクがあって、ナンプラーの塩味が効いてた。美味しかった。

美味しいものは、私の心を元気にしてくれる。美味しいものを食べる時、そばにいてくれた人の顔は忘れられない。いてくれるだけでいい、話を聞いてくれるだけでいい、そばにいてくれればそれで。

結局、タイカレー教室でもバンタイでも、私は悩みを話さなかった。なぜなら、そこにいてくれた人の顔は、私がカレーを頬張る顔を見て、どことなく安心したような顔をしてたから。私もその顔を見て、「ああ、私は独りじゃない」って、思えたからなのだ。

コジキなので恵んでください。