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お酒がいつもより大人の味がした話。

「先生さっきから『大人が嫌いだ!』って言ってるけど先生も大人じゃん。20歳過ぎてるし。だからお酒飲むんでしょ?」

塾の生徒に投げられた言葉に心の中で「え〜(汗)。そうか、中学生からしたら20過ぎれば大人なのか…」と呟く22歳の私。中学生よ、君たちが思ってるほど22歳って大人じゃないんだぜ、とこれまた心の中でぼやいてから「う〜ん、それは確かにそうなんだけどなあ…。まあ、22歳になればわかるよ」と曖昧な回答を残し、教材へと意識を向かせる。君が解いている方程式の問題みたいに綺麗に割り切れる問題ばかりじゃないんだよな、と冒頭の言い分をしている中学生よりよっぽど『子ども』な言い分を浮かべながら、帰宅後どのビールを飲むか検討しだす私は一体子どもなんだろうか、大人なんだろうか。モラトリアム人間と言ってしまえばそれで終わりなんだけど、どうやらそれでは納得できない自分がいる。

「お前にとって、大人になるってどういうこと?」友達に聞かれて案外するりと口から言葉が出てきた。それは、「許容できること」。周りの人たちができていて、私が圧倒的にできないのが「許すこと」なんだよなあ。

許せることが全然増えない。

「卒論なんて適当に文字数埋めればいいじゃん」
口先ではそうやって言えるのに「写真」なんかテーマに選んじゃって手を抜く気がさらさらないな、と言動の不一致を自分で卒論題目を決めながら改めて思う。目の前に転がっている課題に手を抜くことが、妥協することが許せない。

「もう少し肩の力を抜いて取り組めばいいんじゃない?」
誰かにアドバイスをもらったところで肩の力が抜けない。いつも全力でいない自分が許せない。

「それって結構どうしようもなくない?」
自分の力でどうにかしようと思うことがそもそも傲慢なのに、1つ紐の綻びを見つけたら、正しい結び方なんかわかるわけないのに紐を結えようとまごつき続ける。見てみないふりをする、自分が許せない。

最近、「君は真面目だね」と言われることが増えた。褒められた気が全くしない。「言われたことしかできないつまんないやつ」ってレッテルを貼られた気がする。誰かにとっての特別な何かになれない「the other(その他のもの)」でしかない、何もできない、何も持っていない自分が許せない。

体調が良くないことを勘づかれた時、「理想の自分」を振る舞えていない自分が許せない。そもそも、自己管理を怠った自分が許せない。自分を許せないから、誰にも言えない、言いたくない。

「許せない」の負債は積み重なる一方で。負債がまた負債を生む。「許せない」ことがまた新たな「許せない」を生んでいく。「許す」ことでしか精算できないのに、許し方がわからない。自分が自分のことを許していないことから全ての「許さない」が始まっているのに、いつの間にかなんだかもう誰にも許してもらえないような気がする。

自分のことすら許せないのに、他人のことを許せるわけがないなあ、と改めて思う。「許せない」っていうと、ドロドロした何かや、燃え上がる激しいものを想像されてしまうけど、決してそうではない。私にとっては、「どうしてこうなるの?」だったり、「これである必要なくない?」という疑問から今現在を受け入れることができない、なんだかぼんやりとした「不寛容」が増えることだと思う。

でも、「許せない」があるからこそ自分の枠組みをとらえることができるし、誰かの存在を強く感じることができることもあるから、悪いことばかりでない気がしてきた。なんでも許して受け入れてしまえば、自分の枠組みは音を立てて崩れていくだろうし、どこからどこまでが自分で、どこから他人になるのか分からなくなっていくだろう。そんな自分じゃない他の誰かの存在が好きだから、憧れる時があるからこそ自分を取り巻く何かを憎み続けることなく私は今生きているんだと思う。「許さない」ことを「許す」ことはできるようになってきたんだろうな、そんなことを思う。

不寛容を感じることで自分の存在を確かめたり、相手の存在を感じたりするのは寂しいかもしれないけど、仕方がないことなのかもしれない。けれど、その不寛容を怒りや悲しみとしてとらえることは良くないだろう。「自分と誰かが違うこと」「自分じゃない何かを感じられたこと」を、自分が誰かと関わった証だと考えて、不寛容を受け入れて愉しんでいくことの方がきっと本当の意味での「許す」ことに近づくんじゃないかなあ。そんなことを言ってるとまた誰かに「器が小さい」とか言われそうだけど(笑)


大人になるってなんだろう、自分だけが子どものままに感じられる理由を探していると、許すことが足りないことだと気づいた。許さないことに許しを乞いながら飲むお酒は、なんだか少し大人の味がした。




コジキなので恵んでください。