「いたいのいたいの 飛んでけー!」が生む"子どもの発達課題"という呪い
「いたいのいたいの 飛んでけー!」
子どもの頃、ちょっとしたケガ(足をすりむいたり)をしたときに、親からそう言われたことはありませんか?
ぼくは自分の子どもにも言ったことがあります。
「これくらい大丈夫だよ。そんなに痛くないでしょ」
と、泣きくれる子どもに言ったことが。
だけど、よく考えてみると、”子どもの痛いという身体感覚”と”ぼくの身体感覚”は別ものですよね?
子どもの痛覚とぼくの痛覚はつながってないですから、子どもがどれぐらい痛さを感じているかは、ぼくにはわからないはず。
ぼくにわかるのは、子どもの”痛いという感覚”を想像することだけですよね。
確かに(これくらいの怪我ならば、これくらいの痛みだろう)というのは、なんとなく想像がつきます。
だけど、子どもが”感じている痛み”を正確にはわかりません。だって、違う人間ですから。
”痛み”じゃなくて”寂しさ”の場合、もっとわからないですよね。
痛覚ではない”感情”の場合、想像することが難しいですから。
それに自分のなかに子どもと同じ感情を持っていないと、その子の苦しみを理解することはかなり困難です。
それなのに、子どもが問題にぶつかり痛みや寂しさを感じたときに、「だいじょうぶだよ」と、ついぼくら親は言ってしまいます。
これは、自分と他者を分ける”自我境界”の曖昧さが原因なのだと思うんです。
ぼくらは親子や夫婦や会社で、みなが同じ前提で話をすることが多いですよね。
これって、ひとりひとりの自我でそれぞれの存在を切り分けているんじゃなくて、”親子”や”夫婦”や”会社”というグループで境界を切り分けているんです。
ぐるっとそのグループを囲う膜を作り出し、その膜の厚みを薄くしたり厚くすることで、相手を察したり、相手に察することを求めたりしています。
目に見えないこの膜こそが境界線であり、ぼくらが子どもや妻や夫に、自分と同じ身体感覚や感情を知らぬ間に押しつけている原因なんだと思うんです。
妻も(夫も)、わたしと同じ感覚だろう。
子どもも自分と同じ感覚なんだろう。
無意識に感じているこの感覚は、幻想でしかないんだと思います。
この幻想が、”自我境界の曖昧さ”を生み出しているんじゃないのかなって思うんです。
なぜ、ぼくらの自我境界はこんなにももろいのか?
自我境界の曖昧さは、子どもの発達にどういう影響を与えるのか?
夫婦関係への影響は?
ポッドキャスト「アツの夫婦関係学ラジオ」で詳しくお話しします。
ぜひ、お聴きください。
■アツの夫婦関係学ラジオ
#436 ”自我境界の曖昧さ”が子どもの愛着システムに与える影響とは?
※「アツの夫婦関係学ラジオ」は毎週月曜木曜の朝5時配信です。
参考文献:子どもの感情コントロールと心理療法
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