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妻に感謝とねぎらいを伝えることを習慣にしたら、自然と妻から感謝されるようになった。そして、ぼくはもう妻からの感謝を求めなくなった。

こんにちは。

こないだこんなTweetを見かけて、ちょっと思うことがあったので記事にしようと思います。

ワンオペ育児を体験した夫が、妻からの「ありがとう」を欲したという話なのですが、妻からの「ありがとう」を引き出すにはコツがいるため、ぼくが経験したことを書こうと思います。

妻からの「ありがとう」は待っててもこない

ぼくの場合、上の子たち(双子の元気良すぎる男の子)が生まれて3年くらいまでは、戦争のような日々で、毎日を生きるのに精一杯でした。

目の前の子どもを死なさないために、妻からの「ありがとう」を期待する瞬間はまったくなかったのですが、子どもが3歳になる頃にちょっと余裕がで始め、その頃は、ぼくは妻からの感謝を求めていました。

食器を片付けたり、掃除をしたり、洗濯をしたり干したり取り込んだり、なんてことない家事ですが、気持ちに余裕が出たせいか、妻からの感謝を求めてしまう自分がいました。

でも、ある日、気がついたんです。

ぼくは妻に「ありがとう」を伝えているのか?

お互いに家事や育児をするのが当たり前になっているからこそ、ぼくは妻に感謝を伝えていなかったのです。

ぼく自身も家事や育児をやる方だったからこそ、「妻が家事や育児をやること」が当たり前になっていて、感謝の言葉を伝える必要がないと、きっと心の奥で思っていたのだと思います。

自分もやっていることだから感謝をしないのではなく、「相手が行動してくれていること」に感謝をするべきだったんです。

それから、ぼくが仕事から家に帰ると妻は「お疲れさま」と言ってくれるのですが、双子育児で疲れ果てた妻は、ある日こう言いました。

あたしも「お疲れさま」って言われたい。

ぼくは知らず知らずのうちに、仕事から家に帰った父親は、母親から「お疲れさま」とねぎられるべきだと思っていたのかもしれません。

今、この本をなんども読んでいるのですが、ぼくらに染み付いた家父長制とミソジニー(女性蔑視)の意識はかなり根深いものがあると思っています。

なぜなら、ぼくらはそれら(家父長制とミソジニー)を意識せずとも、その2つを両輪として社会で働いているからです。

妻からの「ありがとう」と「お疲れさま」を求める思考そのものが、家父長制とミソジニーからきているのにも関わらず、ぼくはその思考がどこから来たのかなかなか気づくことができません。

妻からの感謝とねぎらいを求めるということは、妻を下に見ているということ、そして、自分はこんなこと(家事や育児)をやるべき存在ではないと認識していることを認めることなのです。

妻からの感謝を求める夫の本音を言うなら、こういうことです。

自分が家事や育児をすることで、自分は妻を助けているのだ。

妻は自分のおかげで助かっているのだから、妻は自分に感謝すべきだ。

本来なら妻がやるべき仕事を、ぼくがこんな大変な思いをして代わりにやっているのだから、妻はぼくに「ありがとう」と言うべきだ。

こんな仕事をやるべきじゃないぼくが、妻に代わってやって「あげて」いるのだ。

「ありがとうの言葉が欲しい」という気持ちは、裏を返せばこういうことなのです。

そんな気持ちで家事や育児をしている夫に、妻が心から自然と「ありがとう」をいう日は絶対にやってきません。

我が家もそうでした。

ぼくが、「妻の代わりに」やっているという意識が消える日まで、妻からの心からの感謝はもらえませんでした。

妻に「ありがとう」と「お疲れ様」を伝え続けることで、妻から自然に感謝されるようになる

ぼくが妻からの「心からの愛情溢れる感謝の言葉と、ねぎらいの言葉」をかけてもらえるようになったきっかけは、これでした。

夫の方から、妻に感謝とねぎらいの言葉をかけ続けるんです。

自分が「ありがとう」と言われたいと、相手からの感謝と自己肯定を求めるのではなく、相手のことを、妻のことを褒めるのです。

妻が行ってくれるすべての行動に感謝し、その感謝を毎日なんども言葉にするのです。

そして、妻が存在することのありがたさも言葉にするのです。

妻の行動と存在のありがたさを言葉にし、妻に「ありがとう」と「お疲れさま」の言葉を、心からの言葉を伝え続けることで、いつしか妻もぼくの行動に自然と感謝とねぎらいの言葉をかけてくれるようになりました。

それ以来、ぼくは自分の行動や存在を認めて欲しいと思っている時に、逆に妻に「ありがとう」を伝えたり、妻を褒めたり、「今日もお疲れさま」とねぎらったり、「なにかあったの?」と気遣うようにしました。

そこから、本当に少しづつ、周りで見ている人にはきっと気づかないスピードで、ぼくらの関係はゆっくりと変わっていきました。

その変化は、妻からのアプローチを待っていたら、きっと永遠にこなかったと思います。

感謝とねぎらいを伝え合うことで、夫婦の愛は上昇スパイラルに乗る

妻に感謝とねぎらいの言葉をかけることを習慣にすると、徐々に妻も同じように行動してくれるようになるため、ぼくら夫婦の愛情は上昇スパイラルに乗ることができました。

お互いがお互いを思いやり、お互いを必要とし、お互いがお互いの行動を先読みできるようになり、感情も先読みできるようになり、これをすれば妻がどう思うか、これをすれば妻が何をするかなど、だんだんとわかるようになってきました。

お互いに体調が悪いときは、そのシックスセンスが鈍ることがありますが(睡眠大事!)、そうでなければ、なんとなくお互いに求めているものが自然とわかるようになってきました。

夫婦の会話の時間を増やすことも重要なのですが、会話の質を上げるためにも、夫婦がお互いに感謝とねぎらいの言葉を掛け合うことが重要なんだと思います。

そして、そのスタートを男が行うことで、家庭はうまく回り出す気がしています。

妻からの感謝を求めなくなる時、初めて家父長制とミソジニーの呪いから男は解き放たれる

最近のぼくは、妻からの感謝やねぎらいを当時ほど求めなくなりました。

今では、ぼくが望む前に、妻が感謝とねぎらいの言葉をかけてくれます。

「ありがとう」と言われて、「なんで?」と思うほど、今のぼくは妻の感謝をそこまで求めていません。

もちろん言ってもらえれば嬉しいですし、それが継続のモチベーションにもなるのですが、自ら欲することがほとんどなくなりました。

そして、この本を読むことで、ぼくは少しづつ日本の家父長制の呪いと、それが生み出したミソジニー(女性蔑視、女性軽視)から解放されつつあることに気がつきました。

日本の90%の家庭にとっては当たり前でなかった家父長制を明治民法に組み込むことで、日本の家父長制とその副産物であるミソジニーは生まれました。

妻は夫より格下である。
妻は夫を支えるものである。

そういった意識があるからこそ、「妻を支える」時に、多くの男は妻からの感謝を求めてしまうのだと思います。ぼくもしかり。

リベラルな思考の持ち主だと思っていても、日々の小さな行動の中に家父長制とミソジニーが潜んでいることに驚くことがあります。

これは意識しないと気がつかない発見でした。

最近、NetflixでLGBTを扱った作品が人気です。

「ハーフ・オブ・イット」「めちゃくちゃ恋するハンターズ(酷い放題だから原題のTeenage Bounty Huntersと呼びたい)」とか。

今後10年以内に、性的マイノリティな存在はメジャーなものになって、性的マイノリティであることがクールであるという風潮が生まれるはずです。

男性の「男性らしくあろうとすることの弊害」や、家父長制からの脱却や、母性や父性の幻から解放された親性や、上も下もない背中合わせのバディのような夫婦関係とか。

そういったことがNetflixなどで作られたらいいのになって、よく思います。

だけど、家父長制の弊害や、男の特権意識や、男性社会特有のホモソーシャル(男性同士の連帯や絆)を、男中心に回っているこの世界が認めるというには、自らの過ちを認め、自分で自分を絞首台に送るようなものだから、もうちょっと時間がかかると思っています。

そういった存在に薄々気がついている男性は、気がついているからこそ、社会の見えざる影で苦しんでいると思います。

でも、その苦しみは、この国にしつこく残る家父長制とミソジニーから、自らを解放させる痛みなのだと思います。

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