【雑感】「普通の人びと」と優生思想
「殺されても仕方がない人間なんていない」
こんなにも当たり前のことを声高に主張しなければならないほど、いまこの国には、ナチス式の「優生思想」が蔓延しているように思います。
かつて、ヒトラー率いるナチスドイツが行なった「ホロコースト」政策によって罪のないユダヤ人や障害者をはじめ、多くの人が「ドイツ民族を優れた民族にする」ために殺されていきました。
現代の視点で考えれば、このような行為は倫理的に考えられないことであると思います。しかし、当時こうした政策を支持していた人たちは、ユダヤ人や障害者をはじめとした尊い命を「殺されても仕方がない」ものと見なしていたのだろうと思うのです。
1960年代後半から1970年代にかけて、日本でも「殺されても仕方がない人間」の問題に近いものが社会問題になったことがあります。障害者介護の問題です。
有名な事件の一つは、1970年に横浜で起こった母親による脳性麻痺児殺害事件でしょう。
この事件では、脳性マヒのある子どもの育児・介護に疲れた母親が、我が子を殺してしまいます。しかし、この事件後に、周辺住民を中心に「母親が可哀想だから減刑してあげてほしい」と署名活動が行われます。
この減刑嘆願に強く抗議したのが脳性麻痺の障害者団体である「青い芝の会」です。「障害児を殺した親が減刑されたら、障害者には生存権がないということになる。」として、こうした風潮を強く批判しました。まさに「障害者というのは殺されても仕方がない命である」という価値観への批判と言えるでしょう。
ほかにも、2016年に起こった相模原障害者施設殺傷事件のあとに、ネット上で犯人をヒーロー視したり讃えるような声がありましたが、これもまた「殺されても仕方がない命である」という価値観のあらわれと言えるでしょう。
ホロコーストを支持することにもつながる「殺されても仕方がない命がある」という価値観は、凶悪な犯罪者に特有のものなんかではなく「普通の人びと」に共有されているものではないでしょうか。
もしも、自分が第二次世界大戦前のドイツに生きている善良なベルリン市民だったとして、ユダヤ人を救うために手を差し伸べる自信があるかと言われたら、正直なところありません。
当時のドイツは密告社会でした。ナチスドイツの政策が公教育にも介入していたこともあり、実親を密告したケースもあるというのですから、まさに「誰も信じられない」状況になっていたと考えられます。
そんな中、赤の他人である「ユダヤ人」を助けることは、もし自分がその状況にいれば、リスクが大きすぎると考えたと思います。見つかってしまえば、収容所へと連行され、死ぬことが分かっているのですから。
このような緊急事態においてならば、自分は目の前の人を「殺されても仕方がない命」と判断してしまいそう、そんな不安を感じます。
母親に、アウシュビッツの収容所に関するドキュメンタリー番組を見せられた。モノクロの画面に映し出される光景はあまりに過酷で残酷で衝撃で、シャワーを浴びる度に水ではなくガスが噴き出すのではないかと、長い間、風呂場の扉を開けることが怖くてたまらなかったほどだ。
番組を見終わると、恐怖にかられたわたしは母親にこう告げた。
もし自分が同じような状況におかれたら、わたしはナチスに入る。痛いのは怖いし、悪いとは思うけど、ユダヤ人の友達がいても裏切る。親や兄弟だって密告するかもしれない。わたしは強い方につく。それでしか生き残れないから。
母は驚いて目を見開いて、「この子は...」と黙り込んだ。
根本的なところで、わたしは卑劣で弱い人間だ。本当に。誰かから理不尽な恐怖にさらされることが恐ろしくてたまらない。それは今も変わらない。
独裁者が現れて、圧倒的な暴力で人を支配する世の中になったなら、わたしはきっとその暴力に屈するだろう。だから、そういう世の中になって欲しくないのだ。切実に。自分のために。
以前、わたしが書いたnoteの中で「非常時気分」が社会に蔓延することによって、優生思想が強化されているんじゃないかということを書きました。
最近、この国で「殺されても仕方がない人間がいる」という言説が広がってしまっている背景についても、ここに一つのポイントがあるのではないかと私は考えています。
つまり、日本国民の意識が低下しているというわけではなく、社会に蔓延している「非常時気分」によって、いわゆる「普通の人びと」が優生思想を表出しやすくなっているということではないかと思うのです。
だからといって「殺されても仕方がない命がある」なんて価値観が許されるという話ではありません。しかし、このような価値観が表出される背景には、個人的な要因だけでなく「空気感」のような社会的な要因もあるでしょう。
「優生思想」を語ってしまう人間を語らない人たちが自分たちと切り離しても、この問題は解決しないように思うのです。
そして、このような「普通の人びと」が「優生思想」を平然と肯定してしまうような社会は、かなり危険であるということも付言しておきます。何度でも言いますが、「殺されても仕方がない」人間などいないのです。
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