見出し画像

「命の選別」発言を「差別的」と切り捨てて終わりでいいのか【雑文】

はじめに

「優生思想」というものについて学び、2年ほどこの問題について考えてきましたが、どうしたら「優生思想」と立ち向かうことができるのか、未だにその答えは出ていません。本当に難しい問題です。

最近、大西つねきさんという方が政治による「命の選別」を肯定する発言を行ったとして話題になりました。本稿では、この問題について自分が考えていたことを思いついたままに自由に書き連ねることにしました。今後、考えていく上での材料にするためです。

あまり他の人に読んでもらうことを想定していないので、推敲もしておりませんし、かなり読みにくい文章だと思います。結論もあいまいですし、あくまでも考えていたことを書いたに過ぎません。自分が間違っている部分もたくさんあると思います。

長々と書いた内容の要点だけ、最初に述べておきます。

・「命の選別」という発言が「優生思想」にあたるかどうかは定義によるため一概には言えないが、その発言が「障害者や病人の『選別』として機能する」ような、問題のある発言であることに異論はない。

・とはいえ、今回の発言の背景にあったものは「若者」というマイノリティ化している(ように見える)対象の救済であり、「みんながマイノリティ」の時代に「歴史的なマイノリティに対する差別」だけを問題にすることの妥当性が問われているような感覚もある(本当にそうなのかは分からないのであくまで筆者の想像)。

・優生学的な実践の歴史を読み解くと、そこには差別性だけでなく「利他性」があり、目の前の "同情" の対象のみに対する利他という意味で「排除性」の問題があるものの、優生学的な実践に反対する立場と共通の価値基盤を持っているとみることもできる。

・優生思想やその実践との闘いの中では「利他」という価値を共通の基盤とした対話が可能なのではないだろうか。また「優生学的な実践」を主張する言説の背景を丁寧に読み解き、何が人びとを魅了するのか理解していく必要があるのではないだろうか。

以下は、読みにくいことを前提とした駄文です。読んでいただくことは前提としていなかったものの、せっかく書いたのでそのまま公開しておきます。お付き合いいただける方はどうぞよろしくお願いします。






大西つねき氏の「命の選別」発言

「命、選別しないとダメだと思いますよ。ハッキリ言いますけど。何でかっていうと、その選択が政治なんですよ。あの選択しないでみんなに良いこと言っていても多分それ現実問題として多分無理なんですよ。」

最初にこの発言の動画を見たとき、またずいぶんと過激な発言が出てきたなぁという印象を受けた。ただ最近のこの社会では、自分なりに「現実的に」考えることだったり、はっきりと物を言ったりすることが人気(そういうことを言う人がメディアで重用される)というイメージはあるので、こういう発言が出てきたことには特別驚かなかった。

そもそも、高齢者を対象とした「命の選別」的な話については、2年ほど前に古市×落合対談でも似たような発言が出てきたことはあったし、特に目新しい発言でもない。個人的には「よくある」やつだと思っている。

れいわ新選組の山本代表は今回の発言を「優生思想」の発露として取り扱おうとしたようだが、一方で「優生思想」ではないという反論も一部見られたようである。確かに「優生思想」をどのように定義するかによって今回の発言がそこに含まれるかは変わるというのは事実だろう。

とはいえ、今回の発言が「優生思想」ではなく個人の「死生観」に過ぎないからと言って、「言い方の問題に過ぎなかった」といった趣旨の結論につなげた擁護論には首をかしげざるを得ない。問題なのは「優生思想」かどうかではなく、政治が「命の選別」を担うべきという主張の是非であるはずなのに。

この発言や、発言をめぐる様々な対応に問題があったことについては、荻上チキ氏のnoteや、れいわ新選組の木村英子議員のブログ舩後靖彦議員の声明などを読めば詳細が分かる。結局、大西氏は多くの批判を受け、れいわ新選組から除籍処分となったが、問題が解決したと言うには程遠い状況だ。

マイノリティとは誰か

荻上チキ氏のnoteの中では、これまでに優生学的な実践のターゲットとなってきた人が「社会的マイノリティ」であることが強調されている。確かに、ナチスドイツ下での優生学的な実践を思い出しても、戦後各国で広がった優生学的な実践を思い出しても、ターゲットが一種の「マイノリティ」性を持った存在であったことは疑いがないように思う。

今回の大西氏の発言についても、単に高齢者を対象とした発言というわけではないし、荻上氏の言うように「障害者や病人の『選別』として機能する言説」であると思われる。優生思想や優生学的な実践に対する批判・反発の中には、このように歴史的に差別を受けてきた「マイノリティ」を守るという視点があることは押さえておきたい。

ところで、大西氏から「命の選別」発言が出てきた背景には「(負担の大きい)若者の救済」という面を見ることができる。この見立てについては、荻上氏も「今回、大西氏が持ち出した論理は、『若者の負担』論で、『選別』対象は『高齢者』です。」と述べていることとも一致する。

確かに大西氏の発言は(前述したように)問題が大きいのだが、その発言の動機が直接「障害者や病人の『選別』」にあったのかと言われると疑問は残る。むしろ「若者の救済」ではないだろうか。それに「若者の救済」という動機を読み取った人が多かったからこそ「言い方の問題」という擁護論がかなり出てきたと考えることもできるだろう。もちろん、動機がどうであれ、発言そのものに問題は残るが。

そもそも、少子高齢社会の中で、若者は高齢者に比べて「マイノリティ」化が進んでいるという現状は確かにあるようにも思う。「若者の負担が大きくなってしまうことは問題だ」という言説の背景には、若者に「マイノリティ」性を見出し、救済の対象とする志向性があるように思う。そうでなければ、負担が大きくなっても特に問題はないはずである。

もっと言えば、現在の社会状況をそのままにしておくことは、マイノリティ化する若年層に対する”不当な扱い”(いわば「若者への”差別”」という状況)を温存することとみなすこともできるのかもしれない。

少し想像してみよう。この社会が80人の病気がちな高齢者と20人の若者からできている村だとする。ここで、”民主主義的な手続き”(多数決)によって、若者は「若いから」という理由だけで高齢者を支えなければならないと決まったとしよう。若者は自分の仕事をする必要もあるが、同時に1人あたり4人の高齢者の介護をしなければならないという状況でもある。

「病気がちの高齢者」の命は守らなければならない。優生学的な実践に反発するならば、このような主張は自然と出てくるはずだ。でも、そのためには、若者が大きな負担を背負い「過労」になろうとも高齢者の介護をし続けなければならないようにも見える。

もしも、本当にこんな社会があったとしたら、いったい「マイノリティ」とは誰なのだろうか。本当に「病気がちの高齢者」がマイノリティなのだろうか。若者はマイノリティになれないのだろうか。いや、確かに「病気がちの高齢者」はマイノリティかもしれないが、やはり若者も数の上で明確にマイノリティであり、若者であるという理由だけで過剰な労働をしなければならず、とても不当な扱いを受けているように見える。

ここで念のため強調しておきたいのは、現代社会はこういう社会ではないということである。あくまで空想の世界である。はっきりと言ってしまえば、こういう "極端な” 思考実験は現実に起こっている問題を考えるのに大して役に立たない気がする。

いくら若者がマイノリティ化してきているとはいっても、「若者=マイノリティ」とまで言える状況ではない(若者の中にも「マイノリティ」はいるだろうが)。

だが、ここまで極端ではないにせよ、大西氏の発言はいま取り上げたものに近いような、いわば ”やや極端な” 仮定に基づいて行われているのではないかと見立てている。まだ、”トリアージ” するほどの状況ではないのではないだろうか。個人としては、立岩真也先生の以下の記事を読んで以降、そこまで心配しすぎなくて良いのではないかと思っている。

ここまでの話を簡単にまとめておくと、大西氏の「命の選別」発言の背景には、高齢者をマジョリティ、若者をマイノリティとみなし、若者という「マイノリティ」を救済しようとする発想があったのではないかと思う。

そこでは「マイノリティ」として認識される対象のズレが起こっているようにも見えるし、ある意味で若者も含めて「社会的マイノリティ」が同列に並べられているからこその「選別」という思想が出ているようにも見える。

まぁ、実態はどうであれ、歴史的に「マイノリティ」であった存在以外を「マイノリティ」とみなす発想が、優生学的な実践に関係する可能性は高いようにも思う。細かいところは分からないが。そうなってくると、今回の反論でみられたような、障害者や病人のような歴史的な「社会的マイノリティ」ばかりを議論の対象として良いのかという疑問は残る。

「みんながマイノリティの時代」と優生学

そもそも、若者を「マイノリティ」化し、救済の対象としようとする志向性が本当にあるのかは分からないが、ジャスティン・ゲストが『新たなマイノリティの誕生』で論じたことを踏まえればみんなに「マイノリティ」という感覚が芽生えている可能性はあり(参考)、それが少子高齢社会と結びつけば「若者=マイノリティ」言説が強まることは想像に難くない。

少し話は変わるが、最近の右派論壇にみられる「反権威主義」も、本来は権威側にいるとみなされるはずの人たちが「マイノリティ」感を持ち、敵(リベラル)を攻撃しているという構図があり、いわば「反権威主義的権威主義」と呼べるような状況だが、これもある意味で「(みんなが)マイノリティ」という現象の一部かもしれない。

心理学における「人種差別」の研究では、もう30年以上前にはなってしまうが「現代的レイシズム」という概念が提唱されている(関連記事)。これは、現代の社会には差別は存在しておらず、例えばアファーマティブ・アクションに対して「逆差別」と捉えるといった特徴をもつ差別的心性であるが、「みんながマイノリティ」の時代には似たような言説が広がる可能性は十分にある。

優生学的な実践への反発には「マイノリティの救済」という認識が存在していることは前述したが、今回のような「命の選別」発言が「新たなマイノリティの救済」を志向した発言ではないかと考えたとき、本当にこの発言を「差別的」と切り捨ててしまって良いのかという疑問は捨てきれない。

誤解のないように書いておくが、今回の発言が「障害者や病人の『選別』」につながる危険な発言であり、歴史的なマイノリティを脅かす発言であったことは疑いがない。だから、問題のある発言だという事実は変わらない。しかし、どこかモヤモヤとするものが残る。

問題の本質は「優生思想」というよりも、マイノリティを救うことに対する認識の違いにあるような気がしてならないのだ。

ヒトラーや植松は「悪人」だったが......

第二次世界大戦下においてドイツで行われたホロコーストは、これまでに述べてきた「優生学的な実践」と関連が深い。詳しく述べるほどの余裕はないが、優生学的な実践を語る上では、やはりナチスドイツの”実践”を抜きにすることはできないだろう。

ここで少しだけ述べておきたいのは「ヒトラーは "誰かのために” 残虐な政策に手を染めた」という側面である。彼の動機にあったのはただの "自己満足" ではない。「アーリア人(ドイツ民族)の救済」という面が少なからずあった。経済政策をみていれば思う。ヒトラーがいい思いをしたかったというより、アーリア人にいい思いをさせたかったのだろう。無論、動機がどうであれヒトラーの行動は問題であるが。

4年ほど前に、知的障害者を大量に殺害した植松聖という男の発言からも似たようなものを感じる。もちろん「自己満足」性があったことは否定できないが、彼の頭の中にはやはり「救済」という感覚があったのだろう。

私は、これまでの歴史で繰り返されてきた「優生学的な実践」は、少なからず "誰かのため” という動機を持っていたと考えている。言い換えれば、優生学的な実践の背景に根強くあるのは差別性よりも利他性なのではないかということである。利他性が "まちがった" 行動につながっていく、それこそが優生学的な実践の根源にある問題なのではないだろうか。

最近も似たような例を見た。いわゆる「自粛警察」である。ネット上では「自粛警察」をする人のことを「歪んだ正義感」を持っているとみなす人が多かったが、別に正義感が歪んでいるわけではないように思うのは私だけだろうか。その正義感を発揮する行動の仕方が間違っているという話だったのではないだろうか。

まちがった行動につながる背景にあるのは「目の前にあるもの以外への想像力の欠如と線引き」ではないかとも思う。そこで「正義感」だとか「救済」だとか言われているものは、目の前にあるものに対する "同情" に過ぎないのではないかとも思う。(そういえば『リーガル・ハイ』というドラマに似たような話が合った気がする。)

そして、目の前にあるものに "同情" するために、目の前にないものを "悪魔化" したり、敵とみなしたりしていく。本当は、その「悪魔」や「敵」も “同情" 相手と同じはずなのだが、そういう人のことは考えないで、無理やり線引きをし、排除する。「優生思想」というものはこうした線引きのツールだ。排除を正当化しようとする一論理になる。

ここで問題視すべきは「排除」のロジックとなっている「優生思想」だけなのだろうか。むしろ、見かけの利他性である「目の前のものへの同情」も問題にした方が良いのではないだろうか。救いたい人だけを救うのではない、「救いたいという気持ちになれないような相手も含めて全員を救う」という利他性を考えていくべきではないだろうか。

利他という共通の価値を見出す

「みんながマイノリティ」だからこそ「連帯」の道を探っていきたいなぁと感じるのだが、今回の一連の顛末からはそうした方向性を見いだせなかった。若者を救済しようとする人と、歴史的なマイノリティを救済しようとする人が対立しただけのようにも思える。

優生思想は確かに問題だし、優生学的な実践が歴史的なマイノリティに及ぼす危険性には自覚的であるべきだ。そのことに異論はない。しかし、その優生学的な実践の背景にあるのは差別的な思想だけではなく、共通的な「利他性」、いわば「新たなマイノリティの救済」という面があったのではないだろうか。

私は、優生学的な実践に強く反対しているが「差別的な思想は根深い問題だから」と切り捨てるのではなく、大西氏の発言との「対話」をもっと模索していくべきだと思う。そして、そこで重要になってくるのは対立軸だけではなく「共通の価値観」ではないかとも思う。

優生学的な実践との闘いのためにこそ「利他」という共通の価値を基盤にした対話ができるのではないかと考えているし、もっとそうしたものをすべきではないかと思う。障害者は守られるべきだ、病人は守られるべきだといくら訴えても、マイノリティ意識を持った「余裕のない人びと」には届かない。自分たちのことも助けてほしいからである。

でも、そうした「余裕のない人びと」や彼らを救済しようとする人びとにも歴史的なマイノリティのことを知ってほしいと思う。じゃあ、何ができるのか。れいわ新選組は「レクチャー」という形式をとったようだが、いま必要なのはそういうことではない気がする。

まずは、今回の大西氏の発言のようなものの背景を丁寧に読み解き、何が「余裕のない人びと」を引きつけるのかを知ることは必要だろう。いま必要なのは「思想変革」の前に「連帯」ではないだろうか。反差別の運動がただの分断に終わるのはよくない。どうやってそれを実現するかは難しいが。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?