「やりがい搾取」とは言うけど,「やりがい」も大切だなと思った話
「やりがい搾取」という言葉がある。Wikipediaには次のように書かれている。
経営者が金銭による報酬の代わりに労働者に「やりがい」を強く意識させることにより、その労働力を不当に安く利用する行為をいう。東京大学教授で教育社会学者の本田由紀により名付けられた。
出典:やりがい搾取 - Wikipedia
この「やりがい搾取」という言葉が広まるにしたがって,最近は「やりがい」という言葉そのものに対しても,マイナスだったりネガティブなイメージが強まっている印象を受ける。
大学で教職課程の講義を受けていると,ときどき現職教員の先生や,元教員である大学の先生のお話を聞くことがある。
日本の教員の「ブラック」さが強調される中,「どうして教員になろうと思ったのか」「教員の魅力は何なのか」という疑問は,きっと多くの大学生が抱いているものだろう。
こうした疑問に対して,多くの先生方は(だいたい)こう答える。
「教員は,やりがいのある仕事です。」
「生徒の成長を直でみられる」など,もう少し詳しい説明はある。とはいえ「やりがい」という言葉が出てきた瞬間にかなり身構えてしまう。正直「この人たちも『やりがい搾取』の被害者なのかな」なんて考えてしまうのである(考えてしまっていた)。少し前に受講した講義でも,先生が「やりがい」という言葉に言及しており,その後に,リアクションペーパーで「結局,教員の魅力が『やりがい』に帰着するのは残念......」というコメントがあったことが紹介されていた。確かに最近の大学生で,「この仕事はやりがいがあります!」と紹介されて,その職を志望する人はそんなにいないんじゃないかと感じる。(むしろ,敬遠するくらいかも......?)このように「やりがい」の価値が非常に低まっていると感じることは多い。
少し話は変わるが,私は大学の近くで塾講師(個別指導)のアルバイトをしている。ちょうど今の時期は公立高校の入試シーズンで,私が教えていた中学3年生の生徒も,先日一般入試の試験を終えたところである。
試験を終えた生徒に会ってみると,みんなから「成長」が伝わってくる。うまく言語化できないのだが,一回り「大人」になったように見えてくる。そして,「あぁ(自分なりだったけど)頑張って教えて良かったなぁ」なんて思えるのである。
ふと立ち止まって考える。これって「やりがい」なんじゃないだろうか。
そんなことに気づいた時,これまでの価値観がガラリと変わった。
きっと,塾講師のアルバイトくらいでも「やりがい」を感じるのだから,学校の先生は,もっと大きな「やりがい」を感じているに違いない。だから,現職教員の先生や元教員の先生が,教員の魅力として第一に「やりがい」という言葉を出すのは,ごく自然なことなのだろうと思った。
最初に紹介した「やりがい搾取」の定義では,経営者が労働者に「強く意識させる」と書いてあった。しかし,学校の先生方が語る「やりがい」の多くは,労働者(先生)が自発的に「強く意識する」ものではないかと気づかされた。こうした「やりがい」に対してまで「搾取されてる」という目を向けることは適切なのだろうか。きっと違うだろう。
「やりがい」そのものに対するネガティブな印象が強まっていることを最初に指摘した。しかし,労働者が「自発的に」感じた「やりがい」までもネガティブに捉えてしまうのは,寂しいことだと感じる。もちろん「やりがい搾取」は許されない。学校教員の働き方改革は,喫緊の課題である。「やりがい」があることに甘んじてはならない。でも,だからといって,教員が「やりがい」という魅力を言った時にネガティブに見る必要はないはずである。これまでの自分の態度も深く反省した。
いい教育のために「環境」を整えることは必要である。そして同時に,いい教育のために「やりがい」を尊重することも必要であるはずだ。「やりがい」は教員の「エネルギー」になる。「モチベーション」になる。「やりがい」を重視しすぎることは良くないが,「やりがい」の軽視によって,あまりいい教育が生み出されるイメージは持てない。要するに「バランス」が大事なのではないだろうか。
うまくまとめられないが,少なくとも「やりがい」そのものをもう少しポジティブに捉えた方がいいと考える。そして,教職課程の講義などでは,私がこれまでしていたような”誤解”を減らす言葉がけが必要だろう。
いい教育をつくるために,教員の「やりがい」をもう少し肯定的にとらえる風潮が生まれることを願う。
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