見出し画像

【雑感】『Fukushima 50』は「考え、議論するきっかけ」になるのか

『Fukushima 50』という映画が話題になっているようです。

『Fukushima 50』

2011年3月11日午後2時46分。
東日本大地震発生。
福島第一原発を襲う、史上最大の危機 ー
原発内で戦い続けた50人の作業員たち。
本当は何が起きていたのか?
何が真実か?
家族を、そしてふるさとを想う人々の知られざるドラマが、
ついに明らかになる。
私たちは、決して風化させない

キネマ旬報のレビューでは、3人のレビュアーが全員星1つとなかなか見ない状況ですが、非常に人気は高いようです。「日本が大好き」な人たちの心をくすぐる内容になっていることは間違いないのでしょう。

ところで、この映画で話題になっていることの一つに、映画の中で描かれた事実の問題があります。

たとえば、評論家の中川右介さんの記事。

どの段階で誰が、「総理大臣を悪役にする」と決めたのかは知らないが、出発点がそこにあるので、演技も演出も、「総理」登場シーンだけは、事実とはかけはなれてしまっている。(p.5)

と評されています。この指摘からは、映画がかなり一面的な見方をしており、中には事実との乖離があるということがうかがえます(それ自体は多少仕方がないとも思いますが)。

さらに、「総理が現地へ行くことになったのでベントが遅れ、被害が拡大した」というストーリーを描いたようですが、このストーリーは現在、事故調査委員会の報告書で否定されているといいます。

端的に言えば、『Fukushima 50』という映画は「全ての人に贈る、真実の物語。」と宣伝しておきながら、すでに否定されているストーリー、すなわち「嘘の物語」を平然と描いてしまっているということです。

娯楽映画とはいえ...

こうした「事実の描き方」の問題について、経営学者・山口浩氏による記事の中では『Fukushima 50』という映画をめぐる賛成・反対意見の一部を取り上げながら、次のように述べられています。

確かに、『Fukushima 50』は「真実の物語」と銘打っているわけで、事実を糊塗するものだ、歴史改変だといった批判を呼びやすいのはわかる。とはいえこれは、ハリウッド映画でもよくある「based on a true story」というキャッチフレーズと同様、映画が事実だけを描いていることを意味しないと考えるべきだろう。娯楽作品である以上、そこに物語を盛り上げるため、わかりやすくするための創作や改変が混じることはむしろ当然だ。その意味で「真実の物語」は「全米が泣いた」とそう変わるものではない(まさか米国民が1人残らず泣いたなどと思う人はいないだろう)。

もっといえば、事実ですら、その伝え方によってある特定の方向へ印象を操作することはできる。実際、ドキュメンタリー作品ではそうした作品が珍しくはない。報道も同様だ。...
『Fukushima 50』を、事実と異なると批判することはおおいにあってよい。主張はさまざまあろう。どんどん議論したらよい。しかしそれができるのは、『Fukushima 50』が作られたからだ。それまで原発事故のことは、多くの人の頭の中からほとんど消え去っていただろう。もちろん、歪曲された歴史が記憶されるのはよくない。...(後略)

太字はすべて筆者による。

読んでみて、おおむね納得できる記事ではありました。娯楽映画ですから、事実の誇張などがあるのは当然だというのもその通りだと思います(個人的に、否定されている内容を「真実」のように扱うことを良いとは思いませんが)。

ただ、山口氏が主張する『Fukushima 50』のおかげで議論ができるから価値のある作品だという論理には違和感も覚えます。そもそも『Fukushima 50』は本当に有益な議論を起こしているのでしょうか。

記事の中にはこんな指摘もありました。

映画は記録ではない。しかし記憶を呼び起こし、記録をひもとき、考え、議論するきっかけを作ることはできる。

映画の一般論としては納得できなくもない指摘ですが、実際に映画を見たときにすべての映画で「考え、議論する」人はいないでしょう。中には、「楽しかった」「感動した」という感情を抱いて終わる映画もあるはずです。

本当に、この”娯楽映画”は山口氏が言うような「考え、議論するきっかけ」になる映画なのでしょうか。

単に「感動した」という感情を引き起こす映画ならば、山口氏が言うような「『Fukushima 50』が作られたから」、議論や批判ができるという主張には疑問符がつきます。あくまで感情的な共感と対立を生んでいるに過ぎない可能性が高いからです。

”感動の”エンディング

残念ながらまだ観に行くことができていないため憶測にはなってしまいますが、この映画はどうやら「感動的な」映画であるようです。たとえば、コピーライターの糸井重里氏は「約2時間ぼくは泣きっぱなしだった。」と述べています。

ただ、感動的な仕上がりを意識しているからかは分かりませんが、結局、何を中心に描きたかったのか分かりにくい映画にはなっていたようです。特に、エンディングについては多くの方が批判的にレビューしています。

ライターの尾中香尚里氏の記事では次のように言及されています。

実はこの映画で最も強い違和感を抱いたのは、官邸の描き方ではない。

ラストを飾る満開の桜。現場の「英雄」たちの活躍によって原発事故が収束し、復興が着実に進んでいるかのように印象づけるエンディング。そして最後に、東京五輪の聖火リレーが福島県からスタートすることを紹介する文字。

「それはないだろう」の一言しかなかった。

類似の指摘は他にも。

この映画だけ見ると「彼らの活躍で原発事故は終息した!」という印象を持つ。実際は今も事故は続き、放射能を出し続け、近所の人たちは家に帰れないでいる。放射能被害も出てる。その部分は全く描かず、日本を救ったヒーローであるかのようなエンディング。

出典:映画「Fukushima50」ーよく出来ているが、誘導されてしまう危険性? [原発問題]
見るうちに無能な上官に翻弄されつつ自己犠牲の精神を発揮する部下を前線に送り出す板挟みの存在の悲憤を描く戦争大作めいてきて、しかも結局、責任の所在をうやむやにしたまま満開の桜に涙する、まさに戦後日本への道をなぞり、迷いなく美化するような展開に呆然とした。

出典:http://www.kinenote.com/main/feature/review/newest/

映画のラストシーンというのは、映画についての最終的な印象を決定づける大切なものです。そこで描かれたのが「満開の桜」と「聖火リレー」。まさに「感動のクライマックス」でしょう(安易すぎると思いますが)。

これでは「感動」を消費するだけの映画ではないでしょうか。

先述した山口氏の記事の中では、

この作品の最大の意義は、誰を悪者として描いたかにあるのではない。これが作られ、多くの人のさまざまな反応を呼び起こしたこと自体にあるのだと思う。

とも述べられています。

ただ、これまでの指摘を踏まえれば、多くの人のさまざまな反応というのは、「考え、議論するきっかけ」となるようなものではなく、むしろ以下のレビューにもあるような「動揺や怒りや対立」に過ぎないのではないかと思います。

豪華俳優陣が見せるやりすぎなほど統率された迫真のうちに、この作品は検証や哀悼や連帯ではなく、動揺や怒りや対立を呼びおこす。

出典:http://www.kinenote.com/main/feature/review/newest/

原発事故が英雄たちによって救われたという「感動的なクライマックス」を見た後に、これからの福島について、これからの日本について冷静に思考する人がどれくらいいるのでしょうか。

「この映画は結局のところフィクションであり、原発事故との戦いはまだまだずっと続いていく」という現実を、満開の桜を見た人びとは本当に受け入れられるのでしょうか。

感情に揺さぶられているとき、熟慮的な思考をしにくくなることは多くの研究が示すところです。当然ながら、感情レベルのぶつかり合いでは復興は進みませんし、何一つ解決することはできません。

この映画はそうした感情的な対立を煽り、むしろ「考え、議論するきっかけ」を奪うような映画になっているのではないかとも思っています。

「考え、議論する」きっかけになっても......

ところで『Fukushima 50』は「全ての人に贈る、真実の物語。」と宣伝されていた作品です。「真実」を”教わる”ような感覚で映画を観に行けば、「考え、議論するきっかけ」になったとしても、その「真実」に沿って考えていく人が多くなると思います。

たとえ、そこで「真実」として描かれた物語は、実際に起こった複雑な背景を切り落として単純化された勧善懲悪のストーリーにすぎず、すでに否定された「嘘」も交えながら描かれていたとしても、多くの人がこの物語を信じていくのではないかと思います。

なぜなら、それが「信じたい」「好きな」物語だからです。

「悪夢のような民主党政権」としきりに過去をディスる首相が少なからず支持を集める国です。当時の首相が「悪」だったというストーリーは気持ちの良いものだと思う人も多くいるのでしょう。

そして同時に、現場で死に物狂いで戦った”日本人”を讃えるストーリーも気持ちが良いと感じる人は多くいると思います。「特攻」が好きな方の話を聞いていれば容易に想像がつくことです。

実際、当時の菅直人首相がインタビューで答えていることよりも、映画を信じるかのように読み取れるレビューもありました。(実際には、因果関係がないと結論づけられていますが。)

本物の菅氏はインタビューで、「私が行ったからベントが遅れたのではなく、遅れているから行った」と言っているが、映画の場面で見る限り、どう見てもこれは逆だった。(p.3)

出典:映画『Fukushima 50』が日本人にもたらす思わぬ副作用(現代ビジネス)

言うまでもないことですが「考え、議論するきっかけ」となる前提の映画に”誤り”があっては、まともな議論ができるはずがありません。間違った、偏った議論ばかりになってしまうことでしょう。

しかも、感動的なストーリーに仕立て上げ、人びとが「信じたい」土壌を整えてしまっている作品です。感情を揺さぶるような描き方をしてしまっては、その誤りを正すことも難しくなります。案の定、Twitterでは既にこの映画への批判的な言及を「反日」扱いする人が現れているようです。

この状況で「考え、議論する」と言われても「何を?」としか言いようがありません。

これまでに言及してきたように『Fukushima 50』は「お涙頂戴の物語」を超えることはできないと思います。そして、そうした感動ストーリーは真実の多面性を無視させ、思考停止を生みかねません。

繰り返しにはなりますが、山口氏が期待したような効果はみられないどころか、逆効果になるのではないかと危惧しています。

おわりに

震災から9年が経ち「記憶の風化」を危惧する声は常にあります。実際、この『Fukushima 50』という作品のおかげで原発事故のことを思い出せるという意味では良さもあると言えるかも知れません。

しかし、繰り返しになりますが、『Fukushima 50』は「真実」を銘打った映画です。さらに、完全なノンフィクションではなく、事実の誇張などがみられ、誤った物語も平気で流布し、それを信じたくなる土壌も整っています。これでは「間違った記憶」を残すことになるのではないかと思われます。それは山口氏も危惧するところでした。

添田孝史氏の指摘も紹介します。

 部長時代に津波対策を先送りしてしまったがために、危険な現場に部下を送り込むことになった。そこに菩薩の姿を見た。その心情を全くカットしたことで、映画における吉田の描写は、とても平板になってしまったように見える。
 映画は、事故の本当の姿を、現場の美談で隠してしまった。こんな単純な形で人々の記憶に残ることを、吉田も望んではいなかったのではないだろうか。(p.3)

『Fukushima 50』が単なる「感動を与えたいだけの映画」なのだとしたら、本稿で批判してきたことに大きな意味はないかもしれません。また、「感動的な仕上がり」という面では優れた作品なのかもしれません。

しかし、福島第一原子力発電所事故という日本を震撼させた未曾有の大災害を、嘘まで使ってお涙頂戴の安易なストーリーに仕立て上げてしまったのだとしたら、その無神経さには「残念だ」と言うほかないでしょう。

一方、ここまで強く批判してきましたが『Fukushima 50』を個人の努力で「考え、議論するきっかけ」にできるとも思います。そのために気をつけるべきことは(本稿で述べたこと以外にも)多くあるでしょう。

映画によって揺さぶられた感情は大切にとどめて、熟慮的に現実を見つめ、対立意見にも耳を傾けられる人が多くいることを願いたいと思います。

余談:太陽の蓋

そういえば、2016年に公開された『太陽の蓋』という映画は原発事故について官邸サイドを中心に描いた映画ですが、今回ほど話題になったような記憶はありません。

本当に「考え、議論するきっかけ」にしたい人は、原発事故を複眼的にとらえるために今からでも『太陽の蓋』を見るべきだと思います。

そういう人は少ないのかもしれませんが。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?