文科省の放射線副読本をめぐって(1)
本日は「放射線副読本」についての意見をもう一度書いてみます。特に、震災関連いじめ・風評被害の視点からアプローチしてみたいと思います。
前回のnoteはそこそこ時間をかけて書きましたが、読み返してみると未熟な点が多くありました。公開後に一部の記述は書き直しました。また、話題を広げすぎたことで議論が十分とは言えない点が多くあったことも問題です。
野洲市の対応をめぐっては、私の記事の公開後、Twitterでの言論が活発化していきました。「大人も読もう」という呼びかけが広まっていました。今は「この副読本は問題ない」という声の方が強いような印象です。元々、放射線副読本の内容を問題視する声は少ないながらもありましたが、今回の件をきっかけに“絶賛派”が急増した印象を持っています。
しかし、批判的に見ている人が述べている「一面的な書き方である」という意見に対する納得のいく反論は(少なくとも私は)見ていません。同時に、先日わたしがnoteで書いた問題点に対しても納得のいく反論は見ていません。今回はそうした点も少し整理しながら、私の述べられる範囲で二つのテーマに絞って私論を述べていきたいと思います。
震災関連いじめについて
最新の副読本は、震災関連のいじめに対する意識改革を図ることを目的としていることがいろいろな場面で指摘されています。 まずは、副読本(中高生向け)の「いじめ」に関するページ(p.15)の記載を引用してみたいと思います。
放射線を受けたことが原因で原子力発電所の周辺に住んでいた人が放射線を出すようになるというような間違った考えや差別、いじめも起こりました。原子力発電所の周辺に住んでいた人が放射線を出すようになることはありませんし、放射線や放射能が風邪のように人から人にうつることもありません。
東日本大震災により被災した子供たちや原子力発電所の事故により避難している子供たちは、震災や避難生活によってつらい思いをしています。そのような友達をさらに傷つけるようないじめは決してあってはならないものです。
偏見による差別やいじめをすることは決して許されるものではありません。根拠のない思い込みから生じる風評に惑わされることなく、信頼できる情報かどうかを確認し、科学的根拠や事実に基づいて行動していくことが必要です。
1.震災関連いじめの原因は「間違った考え」だけなのか
放射線副読本の記述では「間違った考え(≒偏見)」が、いじめの原因であるかのような書かれ方をしています。「間違った考え」がなければ「いじめ」はなくなるという論調であると感じます。
しかし、そもそも原子力発電所がなければ、あるいは原子力発電所の事故が起こらなければ「放射線いじめ」は起こらなかったはずです。このような、震災関連いじめの問題を個人の「間違った考え」のみに原因帰属している副読本の書き方は実態に即した正しいものと言えるでしょうか。原発をめぐる社会的責任を矮小化した記述とは言えないでしょうか。
また、児童・生徒たちが「間違った考え」に基づいていじめをしているという根拠も確認しておきたいところです。このあたりが思い込みの議論であると、有効な対策をすることができません。
NHK「クローズアップ現代+」(2017年3月8日放送分)によれば、避難者いじめの特徴的な理由として指摘されているのは、「放射能」「賠償金」「避難者」の三点です。この調査結果に基づけば、震災関連いじめは「放射能」問題だけではありませんし、特に「賠償金」については、事実に基づいていると言われてしまう可能性が考えられます。そもそも、いじめは事実に基づいていてもいなくても許されないはずです。こうした副読本の記述が「理由があればいじめは許される」という誤った認識の形成につながることも危惧されます。
2.正しい知識を与えれば「いじめ」は減らせるか
いじめ予防という観点から言えば「正しい知識」を与えることは一定の効果を持つと考えられます。正しい知識はネガティブなステレオタイプの形成を抑制することにつながると考えられるからです。
しかし、既にステレオタイプを形成している場合には話は大きく変わってきます。ステレオタイプのリバウンド効果(ステレオタイプを抑制させようとすると、教示があったときには抑制できるものの、その後にかえってステレオタイプが強まった行動をとる現象のこと)の問題を考えれば、抑圧的ないじめ防止の指導は逆効果にもなり得るわけです。
また、前述の通り「副読本」で対応できるのは震災関連いじめの全てではないという点にも注意が必要です。つまり、この副読本のみでのいじめ対応では、論点がずれる(例:「放射能」を理由にはいじめないが「賠償金」を理由にいじめる)だけにしかならない可能性があるのです。
3.おわりに
正しい科学的知識を教えることと絡めながら道徳・人権教育を行うことすべてを否定するつもりはありません。たしかに一定の効果は期待されます。しかし、道徳・人権教育に関する記述も正しくあるべきです。
副読本の姿勢は「正しい根拠に基づいて行動する子どもが増えればいじめはなくせる」であると推察されますが、そうした姿勢は「正しければいじめではない(いじめにならない)」という誤った価値観の形成につながりかねません。本来必要な価値観は、事実かどうか関係なく「いじめはダメ」ということです。
むしろ、震災関連いじめを過度に特別視せず、できるだけ通常のいじめ対策の範疇で考えるべきではないでしょうか。「(普通の)いじめがない教室」ならば、震災関連いじめも起こらないと予想されます。正しい知識などなくても「相手が傷つく発言は控えよう」という意識が醸成されていれば、そうしたいじめは起こるはずはないのです。
風評被害について
「風評被害をなくしたい」こういった声はたくさんありますし、私も心からそう思います。だからこそ、この副読本で風評被害についてどのように扱われているかを確認し、そこに潜む「落とし穴」について確認しておきたいと思います。まずは、副読本での記述(p.15)に注目しておきたいと思います。
福島県を中心とした原子力発電所の事故による被災地域においては、放射性物質による食品・農林水産物の生産休止や出荷制限などの直接的な影響に加え、「原子力発電所の事故による影響を受けた地域」という根拠のない思い込みから生じる風評によって農林水産業、観光業等の地域産業への大きな被害が発生しました。
1.風評被害の責任はどこにあるか
副読本では、風評被害の原因を「原子力発電所の事故による影響を受けた地域」という根拠のない思い込み」と表現しています。震災後に過度に不安を煽る言説が広まり、そうした言説が風評被害に加担したことは確かに事実です。そうした声は私も少なからず問題視しています。
一方、風評被害という言葉を多用することによって、今も一部で残っている「実害」が見えなくなっていることもまた事実だと思います。
先ほどのいじめ議論と同様のレトリックを使って考えると、そもそも原発事故がなければ風評被害はおろか、放射性物質による生産休止や出荷制限も起こらなかったはずなのです。なぜ、こうした問題が原子力発電の負の側面(リスク)としてではなく、消費者意識の問題に集約されてしまうのでしょう。こうした書き方を国の副読本がしているとなれば、やはり責任逃れを疑ってしまいます。
また「根拠のない思い込みをした消費者」にどこまで責任があるかという問題もあります。人間はそんなに根拠に基づいて生活しているのでしょうか。食品を選択するときになんとなく外国産を避ける人がいたとして「それは根拠のない思い込みだ!」と断罪するのでしょうか。
根拠のない思い込みで間違った情報を流布することは確かに悪いことと言えますが、根拠のない思い込みによる食品選択行動そのものを悪いとするのは無理があると思います。「福島を選ばないなんておかしい」と言ってしまえば、権利の侵害になります。副読本の中では、風評について直接「悪い」とは表現していないので批判にはあたらないとも思いますが、文脈としては悪いことのように書かれているので、誤解は招きそうだと思います。
このように考えると、風評被害について考える上では、消費者の「思い込み」を前提としてどうすべきかを考えていく議論が有効ではないかと思います。
2.風評被害を解消するために副読本は役に立つか
そもそも、副読本に書かれた知識は風評被害の解決に役立つのでしょうか。
結論から言えば、部分的に役立つと思います。例えば、検査に関する正しい知識を得ることが福島県産食品の購買行動の促進につながることは、関谷(2016)などが指摘しています。
しかし、正しい知識を提供するだけで「風評被害」が解決すると考えていたら、その見立ては相当甘いと思います。福島県産食品を実際に買ってもらうためにはマーケティング戦略も必要になると思います。さらに、安全情報への接触によるネガティブな効果が近年の心理学研究で指摘されています。
そのあたりは、こちらの拙稿もご参照ください。
ところで、副読本からは少し話が逸れますが、「風評被害」の話題では、科学的知識が強調されすぎている印象を受けることが多くあります。
そもそも「科学に絶対はない」という大前提がどこまで共有されているのか疑問です。様々な先行研究を基にして形成される最も可能性の高い「コンセンサス」を重視することはもちろん大切ですが、同時に「コンセンサス」とは異なる意見もまったく価値がないわけではありません。むしろ、そうした意見を「デマ」「嘘」と断定してしまう姿勢は科学的とは言えないと思います。
また、風評被害の議論の前提となる「安全」というものをめぐっても、主観的な感覚としての安全と、客観的な指標としての安全があることを指摘しておきたいと思います。
関谷(2011)の定義にしたがえば、風評被害の問題での「安全」とは、「主観的な安全」です。言い換えれば、風評被害という考え方は(客観的な指標の有無は問わず)安全だと考えていることが前提となります。
客観的な指標としての安全と主観的な感覚としての安全は一致しません。つまり「数値は○○より低いんです!」と言ったから、それを「安全」と感じるかは人それぞれになるはずです。
もちろん、この世の中に「ノーリスク」なものはありませんから、どこかで安全かどうかの線引きをして「許容」することも必要です。その一つの目安となるのが、国や専門家が示すボーダーラインであると思います。
しかし、そのボーダーラインとは異なる線引きをしている人は「間違っている」わけではありません。それは「主観的な安全」の問題であり、私たちはそのように主観的に安全の判断をする権利を有しているからです。過度に「間違っている」と主張することは、権利の侵害につながりかねません。
そうした「風評被害」問題をめぐる複雑な背景を無視した、一方的な言論が多いことはあまり望ましいとは思えません。個人的には残念に思っています。
3.おわりに
「風評被害」については、副読本の問題としてではなく、解決に向けて必要だと考えられる視点を中心に書いていきました。
本気で「風評被害」について対策を打ち出すならば、副読本で書かれているような科学的知識をはじめとした正確な知識に頼りすぎず、より多様な視点から対策を考えていくことが重要だと考えられます。
具体例としては、行動経済学で指摘されることの多い「二重過程理論」に基づいて、感情(購買意欲)に訴えかけるメッセージを用いたマーケティングが考えられます。購入することによって「義援金」的な意味合いを持つ食品は購入される可能性が高くなることが予想されます。また、福島県産ならではの特色を全面的にアピールすることも(既に行われているとは思いますが)重要でしょう。
こうした点についても、イメージ論だけで語らずに、実証的な事実を基に議論を進めていくことが重要になると思います。
本稿のまとめ
本稿では「震災関連いじめ」の問題と「風評被害」の問題に絞って、副読本に書かれていないことを補足するような形で意見を述べていきました。その中で、そうした問題の原因を「科学的知識の不足」のみに帰属することで、原子力発電そのもののネガティブな側面というように帰属しないことは、社会的責任の矮小化と言わざるを得ないのではないかということも指摘しました。
そもそも、放射線副読本であるのに、なぜ「原子力発電」に関する記述がないのでしょうか。このあたりは次稿(公開日未定)で書くことにしたいと思います。
野洲市の放射線副読本回収報道をめぐるTwitter等での意見については、「内容が妥当であるか」という問題と「回収すべきだったか」という問題が混同されているような印象を受けます。
また、「内容が妥当であるか」については、「書かれている内容は正しいか、誤解を与えないか」という点だけでなく、「その内容が教育の理念に即しているか、主体的・対話的で深い学びに繋がるか」という面からの検討も必要だと思いますが、なかなかそうした検討はされていないのが現状です。
教育に関わる人間の端くれとして、この副読本については今後も少しずつ検討を進めていきたいと思います。イデオロギーから解放された「より良い」理科教育を目指して、今後もこの問題を扱っていきたいと思います。
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