「人格の完成」と「人材の育成」ー教育の目的ー

突然ですが、現在の日本において教育の目的とはいったいなんでしょう。
今日は最近の教育政策における「教育の目的」について書いてみました。

本記事のポイント

◎教育の目的が「人格の完成」と「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」から「人材の育成」に事実上置き換わっている。
◎こうした「人材的人間観」の強まりは人権等の観点からリスクがある。

教育基本法から見える「教育の目的」

第一条には次のように記されています。

教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

要素としては、大きく分けると3つあると言えます。
人格の完成を目指し
平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた
心身ともに健康な国民の育成

第二条には「教育の目標」が五つ記されています。

一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任男女の平等自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

色々と書かれていますが、ざっくり分けると一と四が「人格の完成」および「心身ともに健康」に関する目標、二と三と五が「平和で民主的な国家及び社会の形成者」に関する目標ではないかなと思います。

というわけで、教育基本法に書かれた教育の目的は「人格の完成」「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」であり、第二条にその目標が具体的に書かれていることが分かります。

旧教育基本法を参考に

改正前の教育基本法にも少し触れておきましょう。

同様に、第一条に教育の目的について記されています。

教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

要素を整理すると次の7つに分けられると思います。
人格の完成をめざし
平和的な国家及び社会の形成者として
真理と正義を愛し
個人の価値をたつとび
勤労と責任を重んじ
自主的精神に充ちた
心身ともに健康な国民の育成

かなり多いようにも見えますが、改正後の教育基本法の第二条に書かれていることとも重なるのでほとんど同じと言って良いでしょう。そして、ここでも「人格の完成」が最初に置かれており、戦後の教育の理念としてはここが最も重視されてきたことがうかがえます。

(余談ですが、逆に改正後に増えた項目を見ることで、改正を主導した安倍首相をはじめとした「保守」と呼ばれることの多い方々の思想・イデオロギーがはっきりと見えるような印象も受けますね。)

「人格の完成」をめぐって

ところで、私は「人格の完成」という言葉に「個人志向的」なニュアンスが含まれていると考えています。例えば、中村 (1998) の指摘を見てみましょう。

教育基本法は、その第一段前段で「教育は人格の完成をめざし」と規定している。周知のようにこの目的規定は、戦前の教育が国家に有用な人材の育成に偏っていたことを反省して、戦後の教育は、人間各個人の人間としての完成をめざすものだということを宣言するものであった。

中村 清. (1998). 人格の完成をめざす教育の意味. 教育学研究, 65(4), 299-307.

中村 (1998) の議論を踏まえると、「人格の完成」という言葉は「個人としての人間」にスポットライトが当てられており、その個人の完成(成長・発達)に主眼が置かれたものであると考えられます。

また、青山ら (2018) は、大学生を対象に、教育基本法で規定されている「人格」という言葉の意味について、自由記述式で回答を求めて類型化しています。

その結果、全体的にみられた特徴として、
①個性・価値観・自己理解といった「個人」としての要素
②倫理観・道徳観・常識・教養といった「人間」としての要素
③思いやり・協調性といった「社会性」の要素
が挙げられています。(各学科ごとの特徴は割愛させていただきます)

この結果を踏まえても、人格の完成とは「個人としての人間」の成長といったニュアンスが含まれている(強調されている)と一般的に捉えられていると考えてよいと思います。

青山 奈央 ほか (2018). 教育が目指す 「人格」 の定義: 大学生の意識調査より. 人間研究, (54), 19-26.

使われなくなった「人格の完成」

しかし、近年の教育政策に関する資料に「人格の完成」という言葉はほとんど出てこなくなりました。代わりに、類似した言葉でよく使われてきたものの一つは「豊かな人間性」です。これは教育基本法でも使われている表現です。「人間性」という言葉には少し引っかかりを覚えますが、この言葉も「個人」に焦点化しているのかなとは考えています。

廣瀬 裕一. (2014). 教育の目的に関する一考察. 上越教育大学教職大学院研究紀要, 1, 149-158.(「豊かな人間性」の問題点について言及されています)

そして、もう一つ使われるようになった言葉があります。それが「人材の育成」です。この「人材」という言葉は「豊かな人間性」とは異なり、教育基本法には一切用いられていません。

しかし、先日公表された教育再生実行会議の第11次提言の中には、「人材」という言葉が51回も登場します。「人材の育成」「人材育成」でも16回です。ちなみに「国民」が5回、「人間」が1回、「人間性」にするとゼロ、さらには「人格」もゼロでした。

これは事実上、教育の目的が「人材の育成」に置き換わっているといっても過言ではないように思います。

「人材の育成」はなにが違うのか

ところで、人材という言葉の意味を調べてみると、次のように書かれています。

才能があり、役に立つ人。有能な人物。人才。
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E6%9D%90-537525

ここで重要になるのは「役に立つ人」という点です。つまり「人材の育成」という言葉には、役に立つ人を育てる(役に立つ人に育てあげる)というニュアンスが含まれていると思います。では、誰の役に立つ人を育てるのでしょうか。

先ほども引用した教育再生実行会議の提言での使われ方を確認してみます。すると「専門人材」「社会を牽引する人材」「地域を支える人材」「AI人材」「グローバル人材」「外部人材」などといった使われ方が多いことが分かります。

このように見ると役に立つべき対象は多様ですが、国家が育成の主体であることも踏まえてこの表現を見ていくと、おおむね「国家への貢献」が期待されていると言えるでしょう。さらに、ここには「個人」という視点がありません。

以上の議論をまとめると、「人材の育成」という言葉が「人格の完成」と大きく異なるのは、個人の成長という観点が抜け落ち、その代わりに国家への貢献が強く期待されていることではないかと思うのです。

「外国人材」という言葉から見えるもの

ところで、最近「外国人材」という言葉を頻繁に聞くようになりました。意味は読んで字のごとく「外国からやってきて日本のために働いてくれる人」のことです。

しかし、最近、こうして日本にやってくる「外国人材」の人権保障がおざなりになっていることがしばしば指摘されています。もっと言えば「人間」として扱われていないことが問題視されています。

日本に来る外国人がみんなこのような非人道的な仕打ちを受けているわけではないと思います。しかし、単純労働者をはじめとした、弱い立場の「外国人材」の方を中心にこうした仕打ちに遭っているわけです。

私は、そこにいるのが「外国人」ではなく「外国人材」だからこそ、こうした問題が起こるのではないかと考えています。

人材という言葉は「人」=「人間」のことを「材」=「材料」として捉える、もっとはっきりと言えば「国家の材料」として捉える見方です。こうした見方を「人材的人間観」と呼んでおきましょう。

こうした人材的人間観の強まりによって、人間であれば持っているはずの「人権」が奪われ、非人道的な仕打ちがまかり通ってしまったのではないかと思うのです。

そして、こうした人間観は外国人だけでなく、日本人にも強まっているのではないかと思うのです。その象徴が、教育における「人材の育成」の強調です。

人材的人間観のリスク

教育の目的は、教育基本法に基づけば「人格の完成」であり「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」でした。

しかし、現在の日本の教育政策では「人格の完成」が抜け落ち、「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民」は、「人材」=「国家の役に立つ人」に置き換わっています。

こうして、教育政策では人材的人間観が強まっているわけですが、これは外国人労働者への処遇などを踏まえて考えれば、非常に危険な流れだということが言えると思います。

人権を奪って、国家にとって都合のいい「ロボット」を大量に生成する、それが教育の目的となりかねない状況だと思います。

もちろん、教育の目的の中には「社会参画」に関わる要素もあるわけですから、そうした側面を全否定するつもりはありません。

しかし、昨今の「教育」政策で「人材の育成」という言葉がしきりに語られ、教育の目的であるかのように振る舞っていることは、個人の価値を尊重するという理念にも反すると思いますし、それが教育の目的で良いのかということは問い直していく必要があると思います。

また、こうした人材的人間観(国家の役に立たなければならない)の裏には「国家に反対してはならない」という意図が見えるような気もします。

その象徴とも言えるのが、SNSでしばしば見られる、反政権の人を「反日」扱いしたり「外国人」扱いする人たちでしょう。人材的人間観は、こうした差別的な風潮を助長する危険があると考えられます。

さらに、人材的人間観というのは、富裕層の方々や偉い方々が「人間」を「材料」として見るわけですから、当然、貧富の差や序列化も拡大することになるでしょう。

まさに、「人材的人間観」が強まることによって、近代国家としては「逆走」していく可能性が高いのです。気づかぬうちに、カースト制度が誕生するかもしれません。

おわりに

本稿では、教育の目的が「人格の完成」から「人材の育成」へと変化してきたことについて書いてきました。

たかが言葉一つでと思われるかもしれませんが、少なくともこうした言葉から国家のスタンスというものが見えてきます。(現在の政権は、経済界の影響も色濃く受けていますし「人材的人間観」の強い政権だと思います。)

人材的人間観は、人間(特に労働者)から人権を奪う危険性があるということは理解しておく必要があると思います。実際「外国人材」と呼ばれている人たちの多くがそうして人権を保障されてこなかった過去があるのです。

教育の目的を「人材の育成」に設定すれば、当然のように人材的人間観が強い社会となっていくことが予想されます。私たちが望むのは、人材的人間観の蔓延した「国家に盲従して搾取される社会」でしょうか。

改めて問いましょう。教育の目的とはいったいどうあるべきでしょうか。

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