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芸術と言葉

心が疲れたとき、僕は近所の美術館にいくことにしている。絵のまえに立つと、絵が写鏡となり、自分の現状を示してくれるように感じるからだ。感情の揺れや考えの歪み、成長の跡、至らぬ点、それらが五感で伝わる。絵は本のように言葉を持たないから、この感覚は不思議だと常々思う。本であれば、言葉が文字に変換され、可視化された状態で自分に届く。文字の羅列のなかから、胸に止まる表現や学びの種を拾うわけだが、この作業がなんとも心地よくて、好きだ。ただ、文字を眺めているだけであっても、自然と心のコップに水が湧いてくる。

本に並ぶ文字は、解釈が無限だと思っている。読者によって、切り取る視点や思考、つながりを感じる点が異なる。特に、小説となると解釈の違いが分かりやすく現れ、描かれる主人公の心情ひとつとっても、人によっては感じる喜怒哀楽が異なるだろう。読書会は、この違いが言語化され、体験できるから面白いのだと僕は思う。

話を少し戻すが、美術館に行ったとき、市民による芸術展が開催されていた。各地区の老人会ごとに出展されており、絵画や手芸、書道など幅広く展示があった。なかでも、目に留まったのが書道だった。止め、跳ね、払いの三要素の工夫で、半紙に書かれた文字が踊っているように見えた。普段目にする本の文字は伝えるための文字だが、書道の文字は、絵画のように自分の精神状態を示しているように感じた。これまでは書道の魅力や奥ゆかしさに共感できなかったが、入口に立てる程度にはなったかもしれない。

思想や価値観を他者に伝える方法は言葉だけではなく、言葉を伝える方法も可視化するだけではなく、可視化した文字も言葉を伝えるだけではないのだ、と気づいた、とある放課後だった。

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