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タイ・アユタヤ/その国を知るという事

現在、バンコクで生活をしていることから、この国を歴史的観点と日本の繋がりという点で知りたいと思い、遠藤周作の「王国への道―山田長政」という歴史小説を読み終え、休暇を使いアユタヤに訪れた。
これは、西暦1350年から1767年まで繁栄したアユタヤ王朝を舞台に、日本人傭兵として主にビルマとの戦いにおいて実績を残し、王朝から官位の授与、当時2,000名程住んでいた日本人村の長として生きた山田長政の物語である。同時に日本のキリスト教弾圧を逃れ山田長政と同じ船で日本から出た、ペドロ岐部という人物についても描かれている。この点は、遠藤周作自身がキリスト教徒であったことから、ペドロ岐部にも焦点をあて、キリスト教的観点も含めた作風になっている。当時の日本は江戸時代で鎖国に向かう時勢の中、キリスト教の信仰が認められず、ポルトガル人を含む外国人や日本人信仰者に厳しい迫害が横行したため、これを逃れるためにアユタヤの日本人町で生活をするものが多く、その数は7~8割であったという。ただ、特にアユタヤの土地でキリスト教を信仰したという記録はなく、あくまでも日本人村の生業は傭兵としてのアユタヤ王朝からの対価であったと思われる。

今回、実際日本人町を訪れたが、当時存在した場所(アユタヤ王宮から南に約2km)で博物館が設置されており、山田長政にフォーカスした展示や、時系列にみた日本人村の統計・事象について紹介されていた。アユタヤの他の博物館に比して賑わっており、多くのタイ人が来館していた。というかチャオサームプラヤー国立博物館という一番有名な博物館はほとんど誰も居なかった。
敷地には桜を模した背景や鳥居があったり、日本風に仕上げられており、それをインスタ映えよろしく、多くのタイ人が写真撮影に勤しんでおられた。私も日本人町で風流に撮れた写真を掲載しておきます(対岸にはポルトガル人町)。


日本的という事がタイの人にはポピュラーなんだと思わせてくれる。実際、山田長政とか日本人村についてほとんど関心がなく、ただ、そこに日本の要素があったから訪れる人が多いのではないかと思った。本来はソンクランというタイにおける新年を祝う連休には、コロナが無ければ多くのタイ人観光客は日本を目掛けて脱出していたと思うし。まぁ日本に行けないから日本的要素でも味わっておくかという具合に。
山田長政自体は、アユタヤ王朝のために戦って高みを目指すが、王女や時の摂政、仲間の裏切りに合い、小説の中では、最後は身近な者に毒殺されて一生を終える。
館内では律義にも、山田長政を紹介する5分くらいの映像が流れて、皆さんは視聴していたけど、特にネガティブ要素はなく、タイ人的にはふーんというくらいの感想でしょう。

チャオプラヤー川を挟んでポルトガル人町もあったのだが、そこはほぼ壊滅的な感じだった。閉館間際に行ったのもあるけど、博物館の体を成していなくて、ただ、そこにあるという感じだった。管理者は居たが、入館料で収支できる状態ではなく、おそらく世界遺産の一部として、ユネスコ等からの補助で成り立っていると思う。ポルトガル村の周辺はタクシーもほぼ捕まらず、ライドシェアのアプリは何とか起動して、運転手を確保できたくらいだった。タイではポルトガルの人気はなさそうです。
ポルトガル人のアユタヤ王朝の接点は、主に火薬や武器の提供や、造船技術の提供だったようで、日本や中国(マカオ)への航海の経由地でもあったとのこと。

アユタヤ歴史学習センターという所に行くと、アユタヤ王朝が如何に多くの国と交易を持っていたか分かった。パゴダと呼ばれる仏教建築についてはスリランカの影響を受けていたとの事で、当時のスリランカの外国への進出の一面が伺える。他にはイランやインド、欧州についてはイギリスやデンマーク、フランスも含まれていた。
琉球王国については、日本が接点を持つ約1世紀前から交易を行っており、繋がりの深さが想像できる。実際、泡盛はタイから伝わったものと言われるし、なんとなく現在の住宅の建築様式も沖縄とアユタヤで似ているような印象を受けた。写真の石壁の感じとか、伝わります?
オバQ的な模様は謎だが、幾何学的なデザインには惹かれた。
どの町でも路地は面白く、その土地の生活を想像させてくれる。


アユタヤは外洋に面しておらず、バンコクからチャオプラヤー川を約80km北上するところに存在し、当時のスペイン、ポルトガル、イギリスのような海洋大国から容易に攻撃を受けにくいというメリットもあったのだと思う。交易を行っていたものの、仲が悪くなって攻撃されるという可能性もあったと思うので。

不思議なことに中国人村という場所はアユタヤにはなく、あくまでも商売目的で、マカオ等から船でやってきて、特に大きな町を形成するという事はなかったようだ。
バンコクにはヤワラートという大きな中華街があるが、当時から中国人は外洋に面して地の利の良いバンコクに住んでおり、バンコクの半数くらいの人口が中華系だったようです。

後にビルマ軍がアユタヤ王朝を滅ぼし、新たな国家としてスタートする中心がバンコクになり、中華系の人のプレゼンスもどんどん増していったのだと思う。

レンタサイクルでアユタヤをゆっくり回っていたけど、中華系の人を見かける割合は小さく、浅黒い肌の人が多かった印象を持つ。やはり土地性やコミュニティというのは歴史的な事象が結びついているのだと理解した一つのエピソードでした。

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