効率化の時代にひと手間の価値を考える
人手不足の昨今、どこの企業も業務の効率化や省人化に必死に取り組んでいるところかと思う。
おそらくこの流れはしばらく変わらないだろうし、人がする上で”無駄”と判断される作業は今後さらに削減されていくだろう。
でも、先日そんな流れの”反対側”の価値に気づく出来事があったのでそれについて書いてみたい。
昔ながらの出前スタイルを見て感じたこと
GW中に、親戚が祖母宅に集まる機会があり、僕も同席したのだが、祖母が昼ご飯としてカツ丼の出前をとっていた。
既に90歳を迎えた祖母なので、Uber Eatsなど使うはずもなく、昔ながらの地元の定食屋さんに電話して発注するスタイルである。
そこで見た一連の流れは、普段Uber Eatsなどの無駄の限りなく少ないサービスばかり使っている僕としては、新鮮な部分が多々あった。
祖母の注文した出前の流れは大まかにこうだ。
①電話で注文⇒②ご飯を配達してくる⇒③受取時に現金払い⇒④食後、祖母が食器を洗う⇒⑤配達時の収納箱に収納⇒⑥店員さんが引き取りに来る
ここで、今回ポイントなのは、④と⑥である。
まず、⑥は分かりやすい。
昔ながらの出前なので、食器を食後に取りに来てくれる。
これは昔なら当たり前だったのだろうが、今もこういったサービスが続いているのは驚異的だと思う。
たった一つの注文に対して、配達と引き取りの二度訪問が必要になるからだ。
もちろん、引き取りはお店側のタイミングで来るのだろうし、そもそも出前サービスの対象地域はかなり地域を絞って、近所の圏内のみを想定したもので、お店側にとっての移動距離はそこまで長くはないのだろう。
また、別の観点でいうと、廃棄物を出さない分、この出前スタイルの方が環境にやさしいという点では現代的なのではという考え方もあると思う。
ただ、それでも人件費や手間ということを考えると、たった一つの注文に対して、二度訪問するというのはやはり時代錯誤なスタイルではあると思う。
でもだからこそ、そこまでしてくれることがいいなと感じたところでもあった。
そして、一番自分が驚いたのは、④で、祖母が食器を洗っていたことだった。
つまり、今度はお店側ではなく、客側の祖母がかけていたひと手間についての話である。
祖母が食器を洗ったとしても、十中八九、お店側は食器を再度洗うだろう。
それでも、祖母は引き取りに来るときにキレイになっているようにと、食器を洗って収納箱に入れておく。
この年齢で初めてこれをやり始めるはずがないので、長らくこのスタイルでやってきたのだろう。
この作業自体の実利的な意味というと、ほぼないのではないかと思う。
なんなら、同じ食器を二度洗うことになるので、二度手間が発生していることになる。
では、祖母が自分で食器を洗っておくことは果たして無駄なのか?と考えると、僕は無駄だとは思わない。
そこには、お店側へのごちそうさまという意味が込められているかもしれないし、配達員へのお疲れさまの意味が込められているかもしれない。
もしくは、お店側での洗いが少しでも楽になればという思いかもしれない。
ただ、そんなことは全てどうでもよくて、一番大事なのは、祖母がひと手間をかけて、そのひと手間がほぼ確実にお店側に伝わるということだと思う。
客側が食器を洗って返すということで、お店側が喜ぶことはあっても、いやな思いをすることはおそらくないだろう。
ということは、祖母の行動はお店側の役に立つ行動になっている可能性が極めて高いということだ。
それだけで、このアクションに明らかに意味はある。
何より、僕は傍から見てて、このひと手間をすごくいいな、と思った。
効率や最短ルートばかり考える癖がついていると、確実に生まれない行動だろう。
しかしながら、もちろんこの時代で、無駄にこそ価値がある!などと、人の作業が増えることを奨励したいという考えは毛頭ない。
基本は合理的に考えるべきだし、仕組みを作る側の人間は無駄な労力が発生しないよう知恵を絞るべきだ。
それでも、基本的には合理的、効率的なスタンスだからこそ、どこかで手間をかけることに価値があるし、どういう手間をかけるか、というところにその人のセンスが出るのではないかと思う。
だからこそ、自分もどこでひと手間をかけるのか、自分が手間をかけるならどこにかけたいか、という問いを頭の片隅にしばらく置いてみたいと思う。
そう「あえて」手間をかけるのだ。
そこに人間どうしの伝わるものがあるし、信頼もそんなちょっとしたことから生まれたりする。
岡田武史さんが昔言っていたが、「神は細部に宿る」のだ。
まさにその細部が、ひと手間に当たるのではないだろうか。
そんなことを考えていました。
今日はこんなところで。
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