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お題小説『能力』(1282文字)

 本を開くと、そこに書いてあったのは「助けて」という文字だった。
ぱたりと表紙を閉じ、僕は図書館内を見渡す。

 ついさっき、僕の目の前でこの返却棚に本を置いた女性は、今は文学の書架の前に佇んでいる。声を掛けるべきか、否か。彼女が返却したカフカの『変身』を持ったまま、僕は必死に考える。

 この能力を持ってしまったのは、中学生になってからだ。誰かが読んだあとの本を開くと、扉のページに、その人が読み終わった直後の感情が文字として浮かび上がる。大概は、「面白かった」「期待したほどじゃないな」「読後感最悪」など、単純な感想だ。

 最初は誰かの落書きだと思っていた。けれど学校の図書館の本にはすべてその文字が書かれているのだ。僕以外の人には見えないらしい。面白い事に、数日後に別の人が読んだ同じ本を開くと、別の感想が浮かび上がる。上書きされていくようだった。

 薄気味悪かったが、特に困った能力でもないし、本を選ぶ参考にもなる。どちらかというと読書が苦手だった僕が、大学生になっても、こうやって市立の図書館に立ち寄るほど読書家になったのは、この能力のお陰だと思う。

 けれど、たまに厄介な事もある。この感想が、純粋な本の感想だけとは限らないのだ。
 本の文字を目で追いつつ、心の中で強く思った事がダダ漏れて文字を刻んでしまう事も多いらしい。家族や級友や上司の名前入りで、恨み言が扉に浮かび上がる事もたまにあった。中学校の図書館で、「○○め、絶対に仕返ししてやる」と書かれた文字を放置した後、その○○が、階段から突き落とされて大けがを負ったときは、自分に何か出来たのではないかと、ひどく落ち込んだ。

 その感覚が今また、自分の中に蘇って来た。僕はこの本に「助けて」と残した女性の心の安否を、確かめずに帰れない。たったひと言、聞けばいいだけなのだ。

「あの」

 声をかけると、その女性はゆっくり振り返った。「はい?」

「あの、この本を読み終わった直後、何か怖い事がありました? どこか怪我をしたとか、ゴキブリが出て来たとか……」

 女性は聡明そうな瞳で真っ直ぐ僕を見つめた。
 本当に長い間僕を見つめた。
 たぶん気味悪がられてるのだろうな。

「そうなんです。部屋にゴキブリが出て、びっくりしちゃって」
 女性は思いがけず朗らかに笑い、僕の手に持った本をじっと見た。

「そっか。私が返したカフカは、優しいあなたの手に渡ったのね」

 心臓がトクンと跳ねた。一瞬何が起きたのか分からなかった。
 ただ、その柔らかな笑みと眼差しに胸が激しく鼓動し、苦しくなった。
 ーー僕は、何かに変身したのかな。

    ***

 この青年も、私と同じ、他人の心が読める人なのかと、最初は少し緊張した。でも違った。

 本に残された読者の感情を、文字として読み取ってしまう珍しいタイプ。そして、どうしようもなく、優しいひと。

 もし私が今、「生きるのが辛いんです」なんて胸の底に眠らせた本心を告白したら、この青年はどんな顔をしただろう。ほんの少し、そんないたずら心を起こしてしまう。

 何はともあれ。
 優しい青年と出会わせてくれた、カフカに感謝。そして昨夜、さんざん私を怖がらせた茶色い虫に、感謝。 

〈了〉    


《本を開くと、そこに書いてあったのは「助けて」という文字だった。》という文章から始まる掌編を書きなさい。というお題で書いた習作です。