見出し画像

違憲判決と内閣法制局の審査について


1 前提

 本稿では、戦後の内閣法制局を扱うが、戦後、内閣法制局の組織はいくつかの変遷を経ている。戦後、それ以前の「法制局」がそのまま存続し、日本国憲法の制定の一翼を担った。しかし、GHQが「法制局」の解体を命じ、昭和23(1948)年2月から法務庁に法令審査その他の法制局の事務が移管されることになり、その組織の一部となった。さらに昭和24(1949)年6月からは法務庁が法務府となり、その中の組織となる。占領終了後、昭和27(1952)年に法制局設置法(昭和27年法律第252号)により「法制局」という組織名で復活した。その後、同法は、総理府設置法等の一部を改正する法律(昭和37年法律第77号)第6条により、内閣法制局設置法と題名を改め、組織の名称も「内閣法制局」となったのである。このように、戦後は内閣法制局は、その組織や名称が変遷しているが、法令の審査という意味では一貫した組織であったとみることができる。『内閣法制局史』1974、『内閣法制局百年史』1985でもそのように扱っている。「法務庁(府)時代における法令の起案、審査については、解体前の法制局時代のそれとほとんど異なるところはなかった」(『内閣法制局史』1974・145頁)のである。また、戦前の「法制局」と復活後の「法制局」はその権限の範囲に違いはあるが、法令の審査という点では、大きな変更はないといえる。したがって、本稿では、議院法制局と区別する必要もあることから、文脈上必要のない限り、戦後のこの組織については「内閣法制局」ということにする。

 本稿で対象とする20世紀中に法令違憲とした最高裁判決とは、①刑法第200条の尊属殺規定について違憲とした最大判昭和48年4月4日(刑集27巻3号265頁、百選Ⅰ25事件)、②薬事法(昭和35年法律第145号。なお、薬事法は、薬事法等の一部を改正する法律(平成25年法律第84号)により題名が「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律」に改められている。)による薬局の距離制限規定について違憲とした最大判昭和50年4月30日(民集29巻4号572頁、百選Ⅰ92事件)、③公職選挙法(昭和25年法律第100号)の衆議院議員の選挙区の定数較差について違憲とした最大判昭和51年4月14日(民集30巻3号223頁、百選Ⅱ148事件)、④公職選挙法の衆議院議員の選挙区の定数較差について違憲とした最大判昭和60年7月17日(民集39巻5号1100頁)、⑤森林法(昭和26年法律第249号)による森林の共有分割の制限について違憲とした最大判昭和62年4月22日(民集41巻3号408頁、百選Ⅰ96事件)である。なお本稿で主題的に論じるというものではないが、その後の法令違憲とする最高裁判例を挙げると、⑥郵便法(昭和22年法律第165号)の規定による国の損害賠償責任の免除・制限を違憲とした最大判平成14年9月11日(民集56巻7号1439頁、百選Ⅱ128事件)、⑦公職選挙法が国政選挙について在外国民の投票を認めていなかった部分があったことについて違憲とした最大判平成17年9月14日(民集59巻7号2087頁、百選Ⅱ147事件)、⑧国籍法(昭和25年法律第147号)が日本国民である父と日本国民でない母との間に出生した後に父から認知された子につき、父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得した場合に限り日本国籍の取得を認めていることを違憲とした最大判平成20年6月4日(民集62巻6号1367頁、百選Ⅰ26事件)、⑨民法の規定により嫡出でない子の相続分を嫡出子の相続分の2分の1としていることを違憲とした最大決平成25年9月4日(民集67巻6号1320頁、百選Ⅰ27事件)、⑩女性について6箇月の再婚禁止期間を定める民法の規定を違憲とした最大判平成27年12月16日(民集69巻8号2427頁、百選Ⅰ28事件)、⑪在外邦人が最高裁裁判官の国民審査の投票をすることを認めていない最高裁判所裁判官国民審査法(昭和22年法律第136号)を違憲とした最大判令和4年5月25日である。また、②の前段階で、内閣法制局が違憲の疑いありとして閣法としなかったものを議員立法で成立したものが最高裁で合憲とされた判例として、❷最大判昭和30年1月26日(刑集9巻1号89頁)がある。

2 問題の所在

 そこで、本題に入るが、最高裁判所が違憲判決を出すことが少ないことの理由に内閣法制局の審査があるという議論がある。ここでは、この議論自体を論じようというのではなく、その前提として、20世紀中になされた違憲判決で違憲とされた法律は内閣法制局が審査をしていないということを諸先生方が書いていることについて論じる。それは、正確ではないということがここでの問題である。そして、その一環として、内閣法制局が違憲の疑いがあるとしたものを最高裁が合憲と判断した判決があり、それが違憲判決が出た法律の制定に影響しているということがある。一方で、このように内閣法制局が違憲の疑いありとしたものを最高裁が合憲としたことがあるということは、最高裁の違憲判断と内閣法制局の関係を論じるのであれば、検討の対象となってもよいのではないかと思うが、あまりされていないようでもある。ここでは、こうしたことについて論じてみたいと思う。

 では、具体的に最高裁の違憲判決と内閣法制局の審査との関係についての諸先生方の議論をみていこう。

 このように20世紀中の違憲判決については内閣法制局の審査を経たものではないとする最初は、中村明先生であると思われる。中村1996で、このように述べたのが最初であろうと思われる。なお,同書は第2版が2001年に同じ中央経済社から(中村2001)、第3版が2009年に西海出版から(中村2009)出ているが、中村2009でもこの点を変更していない。中村先生は、中村2009で、最高裁が違憲判決を下した法律として、7件を挙げている(55〜57頁。なお、55頁に「最高裁が違憲判決を下した法律は件ある。」(太字は引用者)とあるが、同頁の見出しは「七件」としており、誤植であろう。)。ただ、この時点では8件あるというべきで、中村先生は、⑦を除く①〜⑧の判例を挙げている。そのうえで、次のように述べる。

 違憲判決を受けた刑法二〇〇条は明治四十年四月二十四日施行されたものだ。薬事法自体は、政府提出法律案だが、六条二項、四項は一九六三年、議ママ立法で追加されたものだ。
 一方、公選法は議員立法であり、森林法百八十六条も議員立法だ。ただ、森林法は一九五一年、農林省において立案されたものだが、政府提案とせず、議員提出とするいわゆる「依頼立法」(by request)の形式で行われた。しかし森林法案を審査したのは衆院法制局である。
 ①〜⑤のケースを見れば分かるように、一九五二年八月、法制局から内閣法制局に衣替えをした後、内閣法制局が審査した法律案で最高裁から違憲判決を下された事例は一件もないのだ。

中村2009・57頁

 最後の一文は、はっきり言って、誤りである。まず、先述したように、昭和27(1952)年8月は、法制局設置法が制定され「法制局」が復活したのであり、「内閣」法制局となるのは昭和37(1962)年であって、「一九五二年八月、法制局から内閣法制局に衣替えをした」というのは誤りである。そのうえで、この文章自体でも問題がある。これでは、1952年8月以前に制定された法律であれば、法制局が審査したので「内閣」法制局が審査していないということになる。それをいうのであれば、前の2つの段落は意味がないことになる。ここでは、1952年以前、法制局となる以前の組織を含めて、内閣法制局は、①〜⑤の判決で最高裁が違憲とした法律については、審査していないということだとして、検討することとしたい。

 西川伸一先生は、2000年に次のように書いている。

 なにしろ、戦後の第一回から今日に至るまで、内閣法制局の審査を経て成立した法律のなかで、最高裁から違憲判決を受けたものは一つもないのだ。一〇〇点満点なのである。

西川2000・23頁

 ここでは、西川先生は特にこの記述の根拠となる文献を挙げてはいないが、これに先行する西川先生の論文では次のように書いている。

 一方,これほど慎重に審査されるのであるから,内閣法制局が審査した法律で最高裁が違憲判決を下したものは1例もない。政令に1件あるだけである(47)。

(47)戦後,最高裁が違憲判決を下した法律は4件あるが,いずれも議員立法で内閣法制局の審査を経たものではない。また,違憲判決を受けた唯一の政令とは,農地法施行令第16条の規定である。中村明,前掲書,29頁 。

西川1997・223〜224頁、注は同248頁

 この「中村明,前掲書」は、中村1996のことである。一方、西川先生はその後21世紀になってから出た違憲判決のことを踏まえて、次のように書いている。

 内閣法制局は国民に直接顔を向けた役所ではありません。その「顧客」は各省庁であり内閣です。とはいえ、その「職人芸」によって、法治国家の屋台骨を支えている状況は現在でも変わりません。たとえば、最高裁が法律を違憲としたのはこれまで九件あります。直近は二〇一三年九月四日の最高裁大法廷決定で、民法の相続規定にある婚外子差別を違憲としたしたものです。
 ただし、いずれも戦後復活した(内閣)法制局が審査した法律ではありません。いかに厳格な審査が行われてきたのかがわかります。

西川2013・6頁

 ここで、「戦後復活した(内閣)法制局が審査した法律」ではないというのは、先述のように昭和27年に法制局設置法により内閣法制局が復活するが、違憲判決が出た法律はそれ以前に審査されたものということになるように読める。このこと自体は間違いではない。しかし、このような書き方だと戦前に途絶えた法制局が戦後復活したというように誤解されかねない。また、戦後復活する前の(内閣)法制局が戦後日本国憲法下で審査した法律は、当然に「戦後復活した(内閣)法制局が審査した法律」ではないことになり、ここでの問題意識を反映していないように思う。さらに、この記述だと、西川先生の先に引用した西川2000や西川1997では、20世紀の違憲判決を受けた法律が復活前で戦後のものを含めた内閣法制局の審査を経ていないとしている見解を変えているように読めるが、それでよいのだろうか、疑問である。

 一方、佐藤岩夫先生は、次のように書いている。

 実際、注目すべきことに,戦後内閣法制局が審査した法律で,最高裁によって違憲判決を受けたものはほとんどないといわれる.表2は,最高裁判所がこれまで法律について違憲判決を下した裁判の一例である.中村明(2001)は,2001年時点で出されていた①〜⑤判決について,違憲判決を受けた法律がいずれも内閣法制局の審査を経ていないことを指摘している.すなわち,明治時代に施行された尊属殺重罰に関する刑法200条(明治40年4月24日施行)を別にすると,②判決が違憲とした薬事法6条2項・4項は,薬事法自体は政府提出法案だが,問題となった6条2項・4項は,1963年に議員立法で追加されたものであり,したがって,内閣法制局の審査は経ていない.③④判決で問題となった公職選挙法の改正はもちろん議員立法である.⑤判決で問題となった森林法186条についても,森林法自体は1951年に農林省において立案されたものだが,政府提案とせずに,議員提出とするいわゆる「依頼立法」の形式で行われた.したがって審査したのは衆議院の法制局であった.つまり以上の限りでは,戦後,内閣法制局が審査した法律で最高裁から違憲判決を下された事例はなかったということになる(中村明2001:31頁).唯一の例外は最近の⑥判決で違憲とされた郵便法である.同法は,1947年に政府提出法案として成立したものであり,したがって,法制局の審査を経ていることになる.もっとも,この1947年という時期は,終戦直後の新体制の下で多数の新しい法律の制定が問題となっており,また,上述の通り,GHQの指示で法制局の廃止が議論されていた時期とも重なり(1948年2月に一旦廃止),当時の法案審査は通常と比較するとやや精密さを欠いていたという状況も推測できないわけではない.

佐藤岩夫2005・89頁

 ここで、「中村明2001」とは、中村2001である。また、「①〜⑤判決」とは、1で述べた①〜⑤判決のことである。佐藤岩夫先生は、その後も同様のことを述べている。

 このような最高裁の消極性の理由は多岐にわたるが、その重要な理由の一つとして、内閣法制局の事前審査の存在が指摘されてきた5)。「法律案は大半が内閣提出法案でありましたために内閣法制局による法案審査がなされますので、そこで厳密な合憲性の検討がなされておりますので、違憲ではないかという問題提起がなされるような法令自体が少なかった」(2003年5月15日の衆議院憲法調査会「統治機構のあり方に関する調査小委員会」における山口繁・前最高裁長官参考人意見)6)。とくに2000年以前の最高裁の法令違憲判決は、違憲とされた条項がいずれも内閣法制局の審査を受けたものではなかった)ことも注目された7)。

5) 中村明『戦後政治にゆれた憲法9条〔第2版〕』(中央経済社2001年)27頁、長谷部恭男「民主主義の質の向上」ジュリスト1311号(2006年)88頁、大石眞「内閣法制局の国政秩序形成機能」公共政策6号12頁(後に、同『統治機構の憲法構想』〔法律文化社、2016年〕271頁)。
6) 〔略〕
7) 明治時代制定の尊属殺重罰規定(刑法200条)を別として、②〜⑤で問題となった薬事法6条2項・4項等、衆議院議員総選挙定数配分規定、森林法186条はいずれも議員立法であり、内閣法制局の審査は経ていなかった。

佐藤岩夫2016・87頁

 間柴泰治先生も次のように書いている。

 また、内閣法制局の憲法解釈自体に対する強い信頼も挙げられる(37)。内閣法制局が審査した法律のうち最高裁判所から違憲判断を受けたのはわずかに2件のみである点(38)、また、「法律上の意見の開陳は、法律的良心により是なりと信ずるところに従ってすべきであって、時の内閣の政策的意図に盲従し、何が政府にとって好都合であるかという利害の見地に立ってその場をしのぐというような無節操な態度ですべきではない(39)」とする姿勢が、そのような信頼を強固にしていると言えよう。
(37)西川 前掲注(34); 中村 同上 pp.29-36.
(38)郵便法の免責規定を違憲とした最大判平成14年9月11日(民集56巻7号1439頁)、在外選挙制度の不備を理由に公職選挙法の一部を違憲とした最大判平成17年9月14日(民集59巻7号2087頁)。
(39)高辻正巳「内閣法制局のあらまし」『時の法令』793号,1972.8.3,p.42.

間柴2008・79頁

 この「西川 前掲注(34)」は西川2002・69-79頁のことであり、「中村 同上」は中村2001のことである。ここでも、20世紀中の違憲判決は①〜⑤で違憲とされた法律の規定について、内閣法制局は審査をしていないこととされている。

 光田督良先生は、①〜⑧判決を示した上で、①〜⑥事件で問題になった法律について内閣法制局は直接関与していないとして、次のように述べる。

 このように、最高裁判所が違憲と判断した法律6件の立法過程における事前の審査に内閣法制局は直接関わっていないといえよう。つまり、戦後、内閣法制局が審査した法律案のうち最高裁判所が違憲判決を下された事例は、在外邦人選挙権訴訟、国籍法訴訟の2件だけである。

光田2010・264頁

 なお、ここで在外邦人選挙権訴訟とは⑦事件を、国籍法訴訟とは⑧事件を指している。さらに、上記の引用で6件としているのは、⑥事件について次のような判断があるからである。

 郵便法第68条、73条の場合、形式的には、戦後の内閣法制局の審査を経た政府提出法律であり、この意味では、戦後の内閣法制局が審査した法律が違憲と最初の事例といえよう。しかし、これらの規定も、旧郵便法の規定をほぼそのまま踏襲しているということから、その制定に戦後の内閣法制局が実質的に関与していたとはいえず、その点で戦後の内閣法制局が直接審査した法律に対する違憲判断でないともいよう。

光田2010・264頁

 しかし、旧郵便法の規定を踏襲した規定について、大日本帝国憲法下で審査をしたから日本国憲法下で憲法に照らして審査していないというのは、いくらなんでも無理がある。他の諸先生もこれは内閣法制局が審査したものと考えている。

 以上のように、20世紀に法令違憲とされた法律は、すべて内閣法制局の審査を経ていないというのがこれらの諸先生方の共通理解のようである。しかし、これは、正確ではないと思う。①の刑法の尊属殺の規定(刑法第200条)は、ある意味で内閣法制局の審査を経ている、少なくとも日本国憲法に照らして違憲ではないという判断を内閣法制局はしているというべきである。また、②の薬事法の規定についても、間接的なものであるが、内閣法制局の判断との関係がある。⑤の森林法第186条については、内閣法制局の審査を経ていることは確認できる。以下、具体的に述べてみよう。

3 刑法第200条

 ①最大判昭和48年4月4日は、刑法第200条の尊属殺重罰規定を違憲としたものである。刑法第200条の尊属殺の規定については、条文自体は戦前からのものであり、日本国憲法下で内閣法制局が審査して制定されたというものではない。したがって、上記のように、中村先生は、この規定が戦前からあるものだということだけで内閣法制局の審査を経ていないとする。また、佐藤岩夫先生は、それをそのままを引き継いでいる。

 さらに、光田先生は、次のように書いている。

 刑法の規定のうち、日本国憲法施行時に憲法の規定と抵触する部分については削除、改正されているが、刑法全体としては、1907年4月24日に法律45号として施行された法律が存続した形になっている。したがって、違憲とされた第200条の制定時に内閣法制局が関わりあったわけではない。

光田2010・262頁

 ここで光田先生は「刑法の規定のうち、日本国憲法施行時に憲法の規定と抵触する部分については削除、改正されている」としているのであるから、その反対に削除・改正がされなかった部分は憲法に抵触しないという判断があったと当然考えるのではないかと思うが、そうは考えないようである。しかし、その理由がよくわからない。また、「したがって、違憲とされた第200条の制定時に内閣法制局が関わりあったわけではない。」というのは、ここでの議論としてはおかしいと思う。光田先生の議論に即するならば、刑法の改正法案の審査において、内閣法制局は改正されない刑法第200条について条文自体の審査はしていないということであろう。その意味であれば、そのこと自体は誤りではない。だからといって、刑法第200条について憲法に抵触しないとして改正をしないという判断があったはずで、内閣法制局の法律案審査における憲法判断を問題にするのであるならば、この点を無視するのは疑問である。

 この場合、日本国憲法が制定され、その際に既存の法令が日本国憲法に適合するかどうかを調査する臨時法制調査会が内閣法制局の職員を中心にして設置され、その調査の結果を受けて、刑法についても皇室に対する犯罪、姦通罪などを削除する改正がなされており、その限りでは、憲法適合性についてのチェックがなされ、改正しなくても違憲ではないと判断されたということになるのではないかと思う。これらの改正を行う刑法の一部を改正する法律案の審議でも、次のようなやりとりがある。ここで答弁をしたのは司法省刑事局長ではあるが、尊属殺規定の存続について議論があり、少なくとも政府部内では刑法第200条は違憲ではないとされ、その前提として内閣法制局で違憲ではないとする判断があったとみるべきではないかと考える。

◯第1回参議院司法委員会第10号(昭和22年8月7日)1〜2頁

○小川友三君 七十三條から七十六條までの、これは、日本國憲法第十四條によりまして、「すべて國民は、法の下に平等であつて、人種、信條、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」この條項によりまして、当然削除すべきものであると思います。
○松井道夫君 ちよつとお尋ねいたしたいのでありますが、七十三條の「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ對シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス」とありましてこの「危害ヲ加ヘ」ということの中には畏多い話でございますが、殺害いたすということも入つておることと存じますが、その点は私まだ調べてございません。当局に教えて頂かなければなりません。仮に殺害申したという場合も入つておるとすれば、刑は新しい改正案によればどういう刑を科することに相成るのか、殺人の刑で行くということに若し解釈すべきものであるならばこれは殺人の罪で、百九十九條の「人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ三年以上ノ懲役ニ處ス」、これに当ることになるのじやないかと存じます。ところが、二百條を見てみますと、「自己又ハ配偶者ノ直系尊屬ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ處ス」、これは改正案は別に削除になつておるような様子もないようであります。これとの釣合い上いかがなものであるか、片つ方の方は三年まで下すことができる。ところが、親或いはお祖父さんに対しては死刑に処する。何だか我々の観念では頗る奇異な感がいたすのですが、その点御見解を伺いたいと思います。
○政府委員(國宗榮君〔引用者注 司法事務官(刑事局長)〕) 「皇室ニ對スル罪」の第七十三條の中の「危害ヲ加ヘ」この中にはお説の通り殺害の点までも含んでおるものと解しております。從いまして、第七十三條を削除することによりまして、仮に天皇等に対しまする殺害の事実が発生いたしました場合は、一般の殺人罪の規定によりまして百九十九條によつて処断することに相成ると思います。そういたしますと、只今御指摘になりましたように、この第二百條の規定におきましては、「自己又ハ配偶者ノ直系尊屬ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役に處ス」、かような規定がありまして、直系尊属殺害の場合に比して、百九十九條のみを適用するにおいては、刑の上において均衡を欠くではないかということも、御尤もな御意見だと存ずるのでありまするが、「皇室ニ對スル罪」を削除いたしましたのは、前に御説明申上げました通り、新憲法の精神に照らしまして、天皇の個人の面におきまして、個人平等の思想に基くその考えからいたしまして、削除いたしたのでございます。いわゆるこの尊属に対する罪は、特定の個人を対象にして、特にこれを重く保護しようというのではないのでありまして、我が國におけるところの長上敬愛の國民感情を基礎といたしまして、一般的に尊属に対する殺傷の罪を重くすると、こういう趣旨であると考えております。從いまして、この憲法に明らかにされておりまする個人平等の思想に、この規定は反するものではない、かように考えまして、特にこの規定を存置した次第でございます。
○齋武雄君 「皇室ニ對スル罪」を廃するということは、これは止むを得ないことでありまして、憲法上当然であると考えるのでありますが、只今七十三條に、「危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス」と、非常に重い刑罰に現行法はなつておるのであります。これは無論殺人も入るのでありましようが、傷害罪もこれに入ると私は考えておるのであります。その場合において、傷害罪は十年以下の懲役となつている。これは非常に軽過ぎやしないか。人命の保護ということを、人体の保護ということから考えて、これは重くしてもよいのじやないか。特に天皇に対しては、國民の感情からいつて……平等でなければならんけれども、併しそういう場合においては、法定刑を重くしてもよいじやないか。一般の法律によるのでありますから、刑法によるのでありますから、そういうことを考慮いたしまして、傷害についてもつと重い刑罰に処するような、そういうことをお考えになつたらどうどしようか。
○政府委員(國宗榮君) 傷害の罪に関しまして、憲法の趣旨から申しまして暴力否定の観点から、暴行罪、脅迫罪等の刑を加重いたしましたが、この「皇室ニ對スル罪」の七十三條の危害を加える中には、御説の通りやはり傷害も含んでおるのでありまして、從いまして、天皇に対しまする傷害の罪が発生いたしました場合は、二百四條によつて処断をすることに相成ります。この七十三條の規定は、死刑一本を以て処断しておりますが、二百四條になりますると、十年以下という刑で、その間に非常に違いを生ずるのであります。御説の通り、十年では、かような場合に賄い切れないではないかという感じがいたすのでありますが、この「國交ニ關スル罪」の九十條によりますと、「帝國ニ滯在スル外國ノ君主又ハ大統領ニ對シ暴行又ハ脅迫ヲ加ヘタル者ハ一年以上十年以下ノ懲役ニ處ス」ということがございまして、この暴行というのは傷害を含むというふうに学説上解釈されておりまして、これが先ず一應十年の刑になつておりますから、この際は改めて二百四條の刑を重くするまでもないと考えまして、そのままの刑にいたしておる次第であります。
○松井道夫君 先程の問題についてでありますが、どうも二百條が死刑と無期に限つている、それが新しい改正の今の第一章の罪の削除の問題に関聯いたしまして、どうも重過ぎるんじやないかという氣がいたすのであります。成る程日本從來の一つの道徳的美風でございまする親子関係、その親を殺傷する、どんな惡性の親であつても殺傷することは許されない。しかし、それは美風でありますけれども、余りにも封建的の美風ではないかという氣もするのであります。それが度が過ぎました場合のことを言つている次第であります。封建的な美風というものが多分にあるのではないかと思います。民法におきましても、未成年者に対する親権というもののみにいたしまして、成年者に対する親権というものを新しい民法の改正案ではなくいたしたのでございます。そういうことを考えて参りますると、この刑法全般に、直系尊属に対する罪につきまして加重した規定がぼつぼつあるのでありますが、この際全般的に檢討を加える時期に達しているのではないかという点、特にこの二百條は皇室との関係、今の第一章の罪の関係、余りにも均衡がとれないのではないかという感じがする。その二百條について再檢討を加えて見るというお考えはないかということをお尋ねしたい。
○政府委員(國宗榮君) 「皇室ニ對スル罪」を削除いたしまして、二百條の規定を存置いたしますことは、その法定刑の関係におきまして甚だ不均衡のものがあるように考えられるのであります。併しながら仮に陛下に対しまする殺害の事実が発生いたしました場合には、その運用におきましては、十分百九十九條によつて適当な刑が賄えるというふうに一應考えたのであります。二百條の法定刑の死刑又は無期が、今日の民法の改正に伴いまして、重過ぎやしないかというお考えに対しましては、多少その嫌いもないではないかというふうに考えられますけれども、まだこれを直ちに変えるというふうな考えは持つておりませんでございます。
○齋武雄君 七十四條の不敬罪の廃止これも新らしい憲法の下では当然であると考えるのでありますが、これと関聯いたしまして、あとの方に、名譽毀損のところに、侮辱罪というのが廃止になつております。その廃止の理由として、政府当局は十二條に適しないものはよろしいではないか、言論の尊重の立場において認めたらいいじやないか放任しておいてもいいじやないかという御意見のようでありますが、私は民主主義の立場から見ても、侮辱罪は罰すべきものであると考えておるのであります。私が申すまでもなく、民主主義は各人の人格を尊重するということでありまして、無論言論の自由は許さなければいけませんが、人の迷惑になる言論はどこまでも抑圧しなければならないのでありまして、そこまで自由がないのでありまして、十二條に適しなくても、日本國の象徴であるところの天皇に対して侮辱の言をする、それが罰せられないことになる。無論不敬も名誉毀損も侮辱に入るのでありますが、名誉毀損の場合には罰せられるが侮辱の場合には罰せられない、外國の使臣に対しても廃止されることになつている。國交の調整ということは非常に大切な問題と私は考えるのであります。昨日侮辱罪を廃止することは疑問であつて、國会の考慮を願うと、こういうお話でありましたが、私もそれに疑問を持つておるのであります。改めてお伺いするところは、この点は固執しないであるか、そういう天皇に対する関係、或いは外國使臣に対する関係等もあるので、侮辱罪については廃止するということについて、絶対支持するのであるかどうか、いま一度お伺いしたいと思います。
○岡部常君 先程尊属殺のお話が出ましたから、ちよつと伺つて置きたいのでありますが、尊属殺に対する加重刑というものに対しては、この立案に際して御考慮になりましたでありましたかどうでしようか。
○政府委員(國宗榮君) この点は十分考慮いたしたつもりでございます。
○岡部常君 そういたしますと、その條文は存置せられまして、それとは違うかも知れませんが、「皇室ニ對スル罪」を全部削除するということになりまして、尊属に対する加重刑は認められ、皇室に対する加重刑というものは全然削除になる。而も新らしい憲法におきましては、やはり一般國民とは違つて、「日本國の象徴である」という言葉が使われておるのであります。尤もこの象徴という言葉が、これは憲法上もいかなる意味を持つかということになりますと、これははつきり決まつたものもないかのように考えられるのでありますが、とにかく普通の國民とは違うものではないかと考えられるのであります。親が……これは封建的というようなことを先程松井委員が言われましたが、その言葉の意味はともかくといたしまして、少くとも日本の國民感情において尊重せらるべきものであるならば、日本の國民の信念の中における天皇、又新らしい憲法においても「象徴」という特別な文字が使われて居りまする至尊に対して、特別の考慮が拂われても一向差支ないのではないか、かように私は考えるのであります。それに関しまして「象徴」という字句に対して、どういうふうなお考えを持つておりますか、この刑法改正を撓りまして司法当局が、いかにお考えになつておりますか、お示しを願いたいと思います。
○政府委員(國宗榮君) 只今の御質問誠に御尤もなことと存ずるのであります。天皇が新憲法の下におきましても國家の象徴であり、國民統合の象徴であらせられることはお説の通りでありまして、而も新憲法上、天皇の行わせらるるところの國事につきましても内閣の助言と承認とを得られまして、そうして天皇には相当の國事をとられることに相成つておるのでありまして、この点から見ますると、確かに天皇の御地位は一般國民とは違うのではないか、こういう点も考えられるのでございます。併しながらこの「皇室ニ対スル罪」の七十三條、七十四條は、旧憲法の下におきましては、一つの國家の基本組織と申しますか、國家的利益の保護のためでございまするが、この内容は、天皇の御個人の身体、名誉に対しまするところの危害を主といたしておるのでございまして、陛下も又個人たる御資格を持つておられるのでありまして、今日の新憲法の下におきましては、個人平等の憲法の規定に照しまして、この規定を削除するのが適当だと、かように考えたのでありまして、ただ國家の象徴であらせられ、又國民統合の象徴であらせられる、これは國民の感情の上に、國民が陛下に対しまする敬愛の感情に基きまして、刑法においてかような規定、「皇室ニ對スル罪」を削除いたしましても儼として存在する事実であろう、かように考えたのであります。從いまして陛下が新憲法上の國家の象徴であらせられ、國民統合の象徴であらせられるというような特殊な御地位につきましては、決して第一章の「皇室ニ對スル罪」を削除することによつてこれを否定するものではないのでございまして、ただ法律上特別の規定を廃して一般の規定によることとしたということに過ぎないのでございます。ただ併しながら國民感情から申しまするというと、甚だ國民の陛下に対しまする敬愛の感情を刺戟することが多いのではないかという虞れもあります。この点につきましては十分な檢討を加えまして、当初におきましては尚この規定を存置いたしましてやはり國民の統合であらせられる陛下の御地位を、特殊に刑法上も認めて行こうという考えも持つておつたのでありまするけれども、いろいろな事情と、日本がこの新憲法下におきまして、國際的に民主化するというような事情からいたしまして、この規定を削除いたしまして、一般の規定によらしめることの方がよろしいのではないかと、かような考えに到達いたしましたので、削除することにいたしました。

 この議論から、尊属殺の刑の加重について検討したが、改正をしなかったということは明らかであるように思う。その上で、この判断を内閣法制局もしていたとみるべきだと思う。

4 公衆浴場法

 ②最大判昭和50年4月30日で違憲とされた薬事法の距離制限規定については、その規定を追加する改正法律自体は、参議院の議員立法であり、その立案を参議院法制局がしたことは間違いない。当該規定の立案に内閣法制局は関与していないということはその通りである。しかし、この規定を置く改正法案が作成されるに至る過程では、公衆浴場法の距離制限の規定が内閣法制局で違憲の疑いがありとされたが最高裁で合憲と判断されたということが関わっている。また,内閣法制局の審査を最高裁が重視しているということを議論するのであるならば、この判決についてどう考えるかも問題となるように思う。ここでは、この判決と内閣法制局の関係についてみていこうと思う。

 問題の判決は、❷最大判昭和30年1月26日である。この判決は、公衆浴場法での適正配置の規定について合憲と判断したものであるが、この公衆浴場法の適正配置の規定は、内閣法制局で違憲の疑いありとされ閣法とならなかったため、衆議院の議員立法として成立したというものであった。まず、この公衆浴場法の適正配置規定についての内閣法制局での動きがどうであったかということについて、『内閣法制局史』1974は、次のように書いている。

(注2) 法制意見が出されると、それが関係者に大きな影響を与えることになることが少なくない。公衆浴場の設置場所の規制に関する法制意見などはその一例といえよう。すなわち、昭和二五年法律第一八七号による改正前の公衆浴場法は、浴場営業に許可を与えないことができる場合として「設置の場所が配置の適正を欠くと認めるとき」を掲げていなかったので、業界ではその設置についてその距離制限を要望し、条例又は規則によってこれを創設しようとする動きがあった。これに関連して福井県知事が当局(当時、法務府法制意見第一局)の意見を求めてきたので、当局は、「公衆浴場の新設について、現存の浴場から一定の距離を保つことを要件とすることは、県の規則によることはもちろん、条例によってもこれを定めることはできない」旨を同知事に回答した(昭和二四年一一月一八日。ちなみに、当時においては、地方公共団体からの照会に対しても法制意見が出されていた(一四三頁参照)。)。そこで、業界の運動は、公衆浴場法の改正に向けられることになったが、当局は、そのような立法についても、憲法第二二条違反のおそれがあることを理由に内閣提案とすることに難色を示した(議員提案によって成立した昭和二五年法律第一八七号による改正後の公衆浴場法第二条第二項の配置の不適正を理由とする浴場営業不許可の規定及び公衆浴場の設置場所の配置の基準等を定める条例の規定が憲法第二二条に違反するものでないことが、最高裁判所の判示(昭和三〇年一月二六日)するところであることは、いうまでもない。)。

『内閣法制局史』1974・245〜246頁注2

 なお、『内閣法制局百年史』1985・272〜273頁でも同じ記述があるが、引用文4行目の「「設置の場所が配置の適正」(太字は引用者)が「「設置の場所が設置の適正」(太字は引用者)となっている(公衆浴場法第2条第2項より『内閣法制局史』1974が正しいと思う。)ことと引用文11行目の末尾の「一四三頁』が「一五三頁」となっていることがある。

 不思議なのは、この後述べるように❷の判決と内閣法制局の関係について触れる文献がいくつかあるが、『内閣法制局史』1974刊行後の文献であってもこの箇所に触れるものがないことである。

 成田頼明先生も、次のように書いている。

その後、配置の適正を欠く場合に許可を与えないようにしたいという要望が業者らの間から強くなって、一九五〇(昭和二五)年に公衆浴場法の一部を改正する法律案が議員提案として提出され、可決・成立して(昭和二五年法律一八七号)現行法の姿になった。しかし、この法案が議員提案になったことの裏には、次のような経緯があったといわれている。すなわち、当初は、この法案を厚生省当局で立案して内閣提出にする予定であったところ、当時の政府部内の法令審査部である法務府法制意見局(現在の内閣法制局の前身)では,適正配置を欠くという理由で許可を与えないことにするのは憲法二二条に違反するおそれがある,というので内閣提出にするのに難色を示したので,議員提案にされたのであるという(「公衆浴場の配置規制は憲法違反か」時の法令一六二号二九頁参照)。

成田1960・122頁

 また、この判決より少し後になってから書かれたものだが、林修三元内閣法制局長官は、この公衆浴場法の適正配置の問題は「もともと私の勤務する内閣法制局の前身である法務府法制意見部局がてがけた」ものであるとしたうえで、次のように書いている。

 すなわち、第一点の、公衆浴場法第二条第二項および第三項の公衆浴場の配置の適正化の見地からする設置場所の許可基準ならびに同条第三項の委任に基づく条例の既設の浴場からの距離を基準とする設置制限の規定と憲法第二二条第一項の職業選択の自由の規定との関係については、すでに昭和三〇年一月二六日に最高裁大法廷が右に紹介した仙台高裁判決に引用されているような趣旨で合憲の判決、しかも全員一致による合憲の判決を下しているから、いまさらこれに異を立てることもないわけであるが、私どもとしては、かねがね、公衆浴場が濫立することによってその経営が困難となり、衛生的設備が低下することは、国民の保健衛生上の見地からゆるがせにできないことであり、こういうことを防止することが公共の福祉上の要請であることは認められるにしても、それは主として監督規定の活用にまつべきものであり、それと配置場所の距離的制限ということがはたして合理的に結びつくことだろうかということについては若干の疑問を抱いていたのである。そこで公衆浴場法第二条第二項の許可基準の規定には、はじめは、「設置の場所が配置の適正を欠くと認めるとき」は不許可にできるという問題の文句が入っておらず、「公衆浴場の設置の場所又はその構造設備が、公衆衛生上不適当であると認めるときは許可を与えないことができる」というものだけであった時代に、条例で、距離制限の基準を設けうるかということが問題となったさいには、こういうことを条例で定めることは法律に違反するであろうとして否定的見解をとり、その後、現行のような設置場所の配置の適正化の基準が法律中に加えられようとしたときも、法律そのものの文言はともかく、少なくとも条例で一律的な距離制限を定められるようにしようという点については、憲法第二二条第一項との関係からやや消極的な意見を述べ、その結果、この公衆浴場法の改正は、昭和二五年の第七回国会で議員立法の形でなされたといういきさつがあるのである。

林1962・25〜26頁

 また、芦部信喜先生も「現在の内閣法制局の前身である法務府法制意見局が、適正配置を理由とする許可の拒否は違憲の疑いがあるとし、内閣提出法案とすることに難色を示したため、業者の圧力で議員提出法案にされたといわれる」(芦部1994・373頁)とし、「その立法化に強い疑義が示された経緯が存することは、裁判所にも周知の事実であったはずである。」(同374頁)としている。

 一方で、この公衆浴場法の適正配置規制について、大石眞先生は次のように書いている。

 しかし,法制意見と司法・立法との対応関係は必ずしもそうした順接的な関係だけではなかったように思われる。この点で興味深いのは,公衆浴場法のいわゆる適正配置規制の問題に対するものであった。すなわち,公衆浴場法の適正配置規制については,かつて福井県知事の照会に対する1949年11月18日付「県の規制又は条例による公衆浴場の新設制限について」(法制意見第1局長・岡咲恕一回答,『法務総裁意見年報』2巻354頁)において,距離制限制を設ける条例は,「公衆衛生上」の見地から設置場所の規制を定めていた当時の公衆浴場法に違反する旨の見解が示された。
 しかし,福井県知事の照会は,もともと,浴場間の距離を法定して浴場新設を制限することは,日本国憲法第22条第1項の規定(職業選択の自由)に違反するのではないか」という「法令上の疑義」を含むものであった。しかし,どういう訳か,この憲法問題について法制意見は直接何も答えるところがない。そのためでもあろうか,後に議員立法によって,公衆浴場法第2条にいう営業不許可について「設置の場所が設置の適性を欠くと認めるとき」という適正配置要件を加える法改正が成立し(1950年5月17日),これに対する最高裁判所の合憲判決も出された(最大判昭和30年1月26日)。その後に制定された現薬事法にも議員立法によって適正配置要件が盛り込まれ(1965年8月),この改正法の施行とともに,広島県「薬局等の配置の基準を定める条例」が制定・施行されるに及んで(同10月1日),再び憲法問題が顕在化することになる。そして,最高裁判所が適正配置要件を合憲とした広島高裁の判断を覆して違憲判決を出したことは(最大判昭和50年4月30日),周知のとおりである。

大石2006・13〜14頁

 大石先生のこの記述は、上に述べてきたところから分かるように、正確ではない。まず、福井県知事による照会に対して、憲法問題について答えていないのは、公衆浴場法によりそうした条例を定めることができないという回答をした以上、憲法問題について答える必要がないからであろう。また、その後、適正配置規定を盛り込む公衆浴場法の改正が問題となったときには、内閣法制局は違憲の疑いがあるとしたために議員立法となった経緯はすでに述べたところである。

 さらに、光田先生も公衆浴場法の合憲判決について、次のように書いている。

 例えば、公衆浴場の開業について距離制限を定めた公衆浴場法の規定に対し、内閣法制局は、憲法上疑義ありとして、内閣による国会への提出に反対した。その結果、内閣提出法律案としては葬り去られることになった。しかし、それにもかかわらず、同法律案は議員立法として国会に提出された。その後、最高裁判所まで争われたが、最高裁判所は簡単に合憲とした。

光田2010・264〜265頁

 この公衆浴場法の適正配置規定の合憲判決は、その後の立法に影響を与えることになる。林元長官は、「前述のように昭和三〇年一月の最高裁判決が出た現在、いまさら公衆浴場法およびその施行条例の右の規定、特に条例の距離制限の規定には違憲の疑いがあるなどということをくどくどしくはいわないが、この判決が私ども立法関係者の気持ちを相当楽なものにしたことは事実である。憲法第二二条第一項の職業選択の自由を公共の福祉の見地から制約することは、この判決によれば相当広い範囲で認められることになるわけで、極端にいえば大ていの制約は可能だということになろう。その後の立法は、大体において、この考え方を基礎として行われている。百貨店法における百貨店の許可制なども、実は相当論議の余地はあったわけであるが、この判決などを参考として踏み切ったのである。」(林1962・26頁)としている。
 また、芦部先生も、「しかし三〇年判決がより注目されるのは、公衆浴場法関係の事件にとどまらず、他の同種営業の競争制限的規制の先例として新立法の制定を促す役割を果たした点であろう。」(前掲・芦部「職業の自由の規制」376頁)とし、その例として百貨店法(昭和31年法律第166号)や後述する薬局の適正配置についてその適正配置基準を都道府県条例に委任することにした薬事法改正をとりあげている。特にこの薬局の適正配置についての改正については、その提案理由説明が昭和25年の公衆浴場法改正の提案理由説明及び昭和30年判決と「論旨の基調をほぼ同じく」(芦部1994・377頁)しているとする。
 大石先生も、先の引用中にあるように、薬事法の改正につながることを認めている。ただ、大石先生は公衆浴場法の適正配置の憲法問題について内閣法制局が見解を示さなかったことをその理由に挙げているが、この点は先述したように正確ではない。

5 薬事法

 このように、公衆浴場法の適正配置規定が、内閣法制局が違憲の疑いがありとしたにかかわらず、最高裁が合憲と判断したことが、薬事法を改正して薬局の適正配置について規定しようとする動きに影響を与えることになる。そして②判決でそれが違憲とされることになる。なお、問題の薬事法の規定は参議院法制局で立案されたものであり、私は参議院法制局に勤務していたが、この点に関し、資料の有無という点を含め、参議院法制局の資料には一切依拠していないことをお断りしておく。

 この薬事法一部改正法案の発議者である高野一夫参議院議員は、この公衆浴場法についての最高裁の判決と古物営業法などの営業許可制に関する判例、そしてそれら判例に対する学説等を検討し(高野1966・229〜240頁)、「このように考えてくれば、薬局の配置の適正を期することは、薬局にその任務を十分果たさせるためにも、国民の利便を計り、福祉を守るためにも必要なことであって、憲法二二条に違反するものではないから、その立法化を考えたい。しかし政府案として提出するにはなお容易でないものがあるから議員立法でゆくほかない。」(高野1966・240頁)と考えるに至る。しかし、「著者は昭和三七年の一二月から参議院法制局と厚生省とを相手にして意見の交換を初めた。しかし、まだその当時は参議院法制局も衆議院法制局も、また内閣法制局も、いずれも、いかなる業種であろうとも適正配置は憲法違反である、公衆浴場の適正配置を憲法違反でないとする最高裁判所の判断もまちがっているという見解をとっていたので、薬局の適正配置も同様だとの考え方であって、意見の一致をみることが容易にできなかった。法制局との協議は翌三八年三月中旬まで続けられたが、漸く意見の一致をみて法律案の作成にとりかかった。」(同248頁)のである。結局、高野議員は、公衆浴場と薬局とを比較し、国民生活における必要性という点で、公衆浴場より薬局の方が重要であるから、最高裁の判決の趣旨より、薬局の適正配置規定は合憲だとする(高野1966・251〜253頁)のである。公衆浴場法の適正配置規定の合憲判決が出るに至る経過が上記のようになっていたことから、薬局の適正配置規定について裁判になれば違憲とされるおそれがあるということを内閣法制局、議院法制局が説明しても説得力がなかったという面があったことは間違いないように思われる。

6 森林法

 森林法は議員立法であり、内閣法制局の審査は経ていないとされている。この場合、中村先生や佐藤岩夫先生も書いているように、森林法は、いわゆる「依頼立法」であり、政府の側で実質的に作ったものを議員立法として提出し、成立したものである。しかし、この依頼立法の場合、政府の側の手続として、内閣法制局の審査を経ているのである。この点を端的に示すものとして、国立公文書館への内閣法制局からの移管文書中に森林法案を審査した記録が残っている。まず、決裁記録として、行政文書>内閣法制局>長官総務室関係>法律命令綴 昭和26年自4月至6月>森林法案があり、そこでは、森林法案について「別紙議員に提案を依頼する左記法律案を審査したが、右は願の通り依頼して差支ないものと認める」としている。その上で、審査記録として「森林法同施行法」(昭和26年5月)が存在している。この件名のページは次のとおりである。

 なお、この審査記録には、問題となった森林法の規定について、憲法上の問題を検討したという記録はないようである。

 なお、依頼立法の具体的な手続については、佐藤功1952・94~97頁に説明がある。その中で、佐藤功先生は、「政府において立法を希望する事項の取扱要綱」(衆議院)、「「政府において立法を希望する事項の取扱要綱」に基く事務処理に関する件」(衆議院法制局)、「政府において議員に提案を依頼する場合の政府部内及び与党法制審議特別委員会の取扱についての要望事項」(昭和26年1月31日、法務府法制意見部)の3文書を示して、どのように行われたかを明らかにしているが、そのほかに第4の文書として「政府において議員に提案を依頼する場合の手続及び取扱要綱」(自由党法制審議特別委員会、衆議院事務局・同法制局、参議院事務局・同法制局、内閣官房)があるとし、「細部の手続及び取り扱いの決定版といえる」が、「余りに細部にわたり、また主要な点は何れも第一乃至第三の文書の反覆であるから」同論文では取り上げないとしている(佐藤功1952・97頁)。上記の3文書と同様、この第4の文書についても、現在国立公文書館のデジタルアーカイブで見ることができる。第4の文書の件名ページは、次のとおりである。

 佐藤功1952とこれらの文書とにより、依頼立法の手続を概観すると、依頼する法律案について、省庁は、次官会議に付議する前に法務府法制意見各局の審査を経て、その経たことによって作成した法律案を次官会議に付議するものとされ、次官会議の決定後閣議了解(次官会議で意見の一致を見ないものについては閣議決定)を経て、内閣官房から与党に正式依頼することとなっている。そのうえで、両院の議院法制局において、審査をすることとなっていたのである。「要するにこれらの文書に示されているこの措置の特徴は、実質的には完全に内閣が準備した法律案を、内閣が与党に依頼して、単にもつぱら形式的に議員立法の形で提出せしめるということであり、従つてまた依頼後及び議員の発議後と雖も、修正等、その法律案の取り扱いは議院乃至議員側の自由に任せられていない、ということである。提案理由の説明や質疑応答の資料等はすべて内閣側から提供され、議院(与党)の修正も一々内閣に連絡してその諒承を得なければならぬ。要するに議員立法とはいうもののそれは単にもつぱら形式上のみである。」(佐藤功1952・96頁)ということになる。

 このほか、森林法が内閣法制局の審査を経ていることを示す文献がいくつか存在する。佐藤達夫元法制局長官(佐藤達夫先生は、法制局が内閣法制局になる前の長官であり、「1 前提」での説明とは異なることになるが、「法制局長官」としている。)は、この法案の審査の当時は法務府法制意見長官であり、「この森林法は議員提出の形式にはなつていたが、いわゆる政府依頼の法案でありその草案には、私も太鼓判をおしている」(佐藤達夫1954・241頁)と書いている。森林法案の成文化に衆議院法制局の部長として関与した鮫島眞男先生にも、この判決に関連して書いたものがある(鮫島1996・113~117頁)が、その中で、上記の依頼立法の手続について説明している(鮫島1996・116~117頁(注6))。なお、鮫島先生は、この判決で違憲とされた森林法の条文について、「何か議論したことがなかったかどうか、改めて記憶をたどってみたが、全く覚えはない」(鮫島1996・114頁)としている。当時、当該条文の憲法適合性が問題となっていなかったことを示唆しているものと考えられる。

7 結論

 このように見てくると、2000年以前の違憲判決についても、内閣法制局が審査を経ているものがあることが確認できる。しかも、内閣法制局が違憲の疑いがありとしたものを最高裁が合憲と判断したものもある。これまで述べてきたように、2000年以前の違憲判決が出た法律について内閣法制局が審査していないということは、先行研究に基づき、諸先生方が引き継いできたものといえるが、日本国憲法制定に伴う既存法律の検討や依頼立法の手続といったことを考え合わせれば、上記のように考えることになるものだと思う。しかし、こうした事柄と違憲とされた法律とを結びつけにくかったということから、諸先生方が上記のような見解を示す結果になったと考えられる。この点は、立法についての研究の蓄積がないことの表れのように思う。

 なお、2000年以前の違憲判決について内閣法制局が審査を経ているものがあるというここでの結論が、違憲判決が少ないことの理由の一つとして内閣法制局の審査があるからだとする議論にどう影響するかである。この場合、評価を変えた判決の数が少ないことから、あまり影響はないということにもなりそうである。とはいえ、川﨑2009やロー2012のように、違憲判決の少なさについては最高裁の側の要因が大きいと見るべきではないかとの議論もある。この場合、全体としての傾向としてどう考えるかということと個別の判決に当たって内閣法制局の審査があるということを意識するかということは分けて考えるべきであるように思う。本稿で見てきたところからすると、最高裁は、個別の判断については、内閣法制局の審査があったかどうかということを意識することなく、行っているように私には思える。しかし、この点については、やはりサンプル数が少ないので、なお検討をする必要があるように思われる。一方で、内閣法制局の審査があることは、全体の傾向として違憲判決が少ないことの理由の一つになっていることは間違いないように思う。今後さらに研究してみたいと思う。

文献

大石2006=大石眞「内閣法制局の国政秩序形成機能」公共政策研究6号7頁以下(2006)

川﨑2009=川﨑政司「立法をめぐる昨今の問題状況と立法の質・あり方―法と政治の相克による従来の法的な枠組みの揺らぎと、それらへの対応」慶應法学12号43頁以下(2009)

佐藤功1952=佐藤功「いわゆる議員立法についてー日本の場合とアメリカの場合との比較」公法研究6号91頁以下(1952)

佐藤岩夫2005=佐藤岩夫「違憲審査制と内閣法制局」社会科学研究56巻5・6号81頁以下(2005)

佐藤岩夫2016=佐藤岩夫「内閣法制局と最高裁判所の現在」法律時報87巻12号87頁以下(2016)

佐藤達夫1954=佐藤達夫「植物哀傷篇」『法律のミステーク』238頁以下(学陽書房、1954)所収241頁〔初出・時の法令32号34頁以下(1951)〕

鮫島1996=鮫島眞男『立法生活三十二年―私の立法技術案内』(信山社、1996)

高野1966=高野一夫『薬事法制』(近代医学社、1966)

『内閣法制局史』1974=内閣法制局史編集委員会『内閣法制局史』(大蔵省印刷局、1974)
なお,同書は、内閣法制局から国立公文書館へ移管された文書に含まれていて、同館のデジタルアーカイブで閲覧できる。

『内閣法制局百年史』1985=内閣法制局百年史編集委員会編『内閣法制局百年史』(内閣法制局、1985)

中村1996=中村明『戦後政治にゆれた憲法9条:内閣法制局の自信と強さ』中央経済社(1996)

中村2001=中村明『戦後政治にゆれた憲法9条:内閣法制局の自信と強さ〔第2版〕』2中央経済社(2001)

中村2009=中村明『戦後政治にゆれた憲法9条:内閣法制局の自信と強さ〔第3版〕』西海出版(2009)

成田1960=成田頼明「公衆浴場法二条二項と職業選択の自由」ジュリスト続判例百選122頁以下(1960)

西川1997=西川伸一「内閣法制局-その制度的権力への接近」政経論叢65巻5・6号1071頁以下(1997)

西川2000=西川伸一『立法の中枢 知られざる官庁・内閣法制局』五月書房(2000)

西川2002=西川伸一『立法の中枢 知られざる官庁・新内閣法制局』五月書房(2002)

西川2013=西川伸一『これでわかった内閣法制局 法の番人か?権力の侍女か?』五月書房(2013)

林1962=林修三「法律解釈の一断面―公衆浴場法に関する仙台高裁判決を読んで―」ジュリスト244号24頁以下(1962)

百選I=長谷部恭男・石川健治・宍戸常寿編『憲法判例百選(第7版)Ⅰ 別冊ジュリスト№245』(有斐閣、2019)

百選Ⅱ=長谷部恭男・石川健治・宍戸常寿編『憲法判例百選(第7版)Ⅱ 別冊ジュリスト№246』(有斐閣、2019)

間柴2008=間柴泰治「内閣法制局による憲法解釈総論』レファレンス58巻2号(通号685)75頁以下

光田2010=光田督良「法律案の憲法適合性審査に対する内閣法制局の機能と問題性」駒沢女子大学研究紀要17号257頁以下(2010)

ロー2012=ディヴィッド・S・ロー(西川伸一訳)「翻訳 デイヴィッド・S・ロー「日本の最高裁が違憲立法審査に消極的なのはなぜか」」政經論叢81巻1・2号171頁以下(2012)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?