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雪国と瀕死の白鳥

川端康成没後50年

今年は川端康成没後50年とのことで、それを記念してか代表作「雪国」をドラマ化したものがテレビで放映されたり、各地で関連の催しが行われたり、さらにはこれまで全集でしか読めなかった川端の「少年」が文庫で刊行され大きな話題となったりしている。

さらに今年は芥川龍之介の生誕130年でもあり、こちらも関連展示や講演会などが開催されているが、川端は芥川の7歳年少の同時代人だった。
芥川が早くに亡くなっているし、川端のその後の活動が華々しいために活躍した時代が異なっているという気がしていたのだが、芥川の没年である1927(昭和2)年までに川端はすでに「十六歳の日記」、「伊豆の踊子」などを書いている新進作家だったのだ。
ちなみに川端と同年生まれの作家には、米国のヘミングウェイやアルゼンチンのボルヘス、ロシア生まれのナボコフなどがいて、実に多士済々である。

夢幻能としての「雪国」

さて、川端の「雪国」は、ノーベル文学賞授賞理由にあるように「日本人の心の精髄を優れた感受性で表現する、その物語の巧みさ」を代表する作品である。
1935(昭和10)年頃から戦後の1947(昭和22)年にかけて断続的に書き継がれて完成した本作は、執筆されていた時代背景もあって性愛表現などはあくまで抽象的に読者の想像に委ねる書き方をしているのだが、そのことが生々しさを濾過し、象徴的で、えも言われぬ美しさを醸しだしている。
 
語り手の立場にある「島村」は親譲りの財産で無為徒食の生活をしているのだが、その生活感は希薄であり、この小説の中においては、あくまで「芸者駒子」や雪国に向かう列車の中で見かけた「葉子」の姿を浮かび上がらせるという役割のみを担っていると思える。
川端自身が島村について語ったものとして、「島村は私ではありません。男としての存在ですらないようで、ただ駒子をうつす鏡のようなもの、でしょうか」という言葉が紹介されているが、新潮文庫版で郡司勝義が注解に書いているように、「能でいえば駒子のシテに対するワキといえようか」という解釈が説得力をもっているように感じられる。
 
ある場所を訪れた旅人(島村)の前に現れる雪国の精霊のような存在が駒子なのだ。
夢幻能形式の叙述によって語られる雪国の生活や駒子の身の上話は象徴として昇華され、半ば睡りの中にある島村の妄想を通して顕現化すのだ。
それゆえにこその駒子の清潔な澄み切ったような美しさなのではないだろうか。
 
ポール・クローデルは「劇とは何事かが到来するものであり、能とは何びとかが到来するものである」と定義づけている。(堀辰雄訳)
「雪国」には、たしかに劇的要素も十分に配置されているのだが、それよりはむしろ「能」的な美しさに満ちていると感じる。
そういえば冒頭の国境の長いトンネルは、まさに能舞台における「橋懸かり」のような役割を担っていると考えて良さそうである。
信号所で島村が聞いた葉子の悲しいほどの美しい声は、能舞台へと幻影を呼び込むための囃子方の空気を切り裂くような笛の響きに似てはいないだろうか。
 

「雪国」と西洋舞踊

「雪国」の語り手的存在である島村は、親譲りの財産で、無為徒食の生活をしているとされているが、小説の中ではさらに、かつては彼が日本踊りの研究や批評めいたものを書いていて、自らも実際運動のなかへ身を投じようという時にふいと西洋舞踊に鞍替えしてしまったことや、今では西洋舞踊の書物と写真を集め、ポスタアやプログラムまで苦労して外国から手に入れたうえで、西洋の印刷物を頼りにそれらを紹介する文章を書くようになり、いつしか文筆家の端くれに数えられている、といったことが島村という人間を表すものとして書かれている。
 
こうした島村のあり様は、西洋舞踊に対してはもちろん、自分自身により一層冷笑的である、と感じる。
 
以下、小説から引用すると、
 「……ここに新しく見つけた喜びは、目のあたり西洋人の踊りを見ることが出来ないというところにあった」「見ない舞踊などこの世ならぬ話である。これほど机上の空論はなく、天国の詩である。研究とは名づけても勝手気儘な想像で、舞踊家の生きた肉体が踊る芸術を鑑賞するのではなく、西洋の言葉や写真から浮かぶ彼自身の空想が踊る幻影を鑑賞しているのだった。見ぬ恋にあこがれるようなものである……」
 
こうした島村の態度は、仕事の対象である西洋舞踊を愚弄しているとも思えるのだが、無論重点にあるのは、「今の日本の舞踊界になんの役にも立ちそうでない」ものを書き、「自分の仕事によって自分を冷笑する」という姿勢なのである。
その斜に構えた姿勢がどのようにして彼の中に醸成されてきたのかまでは読み取れないにしても、「そんなところから彼の哀れな夢幻の世界が生まれるのかもしれ」ないと彼自身が考えていることは理解できるだろう。
そして、そうした彼の態度=生き方が、駒子に対する態度にも表れているのであり、それが小説の全体を貫く基調音となっている。
 
島村が見ているのは、目の前の、肉体を持った駒子という女なのではなく、彼の空想が生み出した幻影としての女の美なのである。
そしてその空想は、小説の最後の繭倉の火事の場面で一気に転調し、新たな幻想が彼を包み込む。
それは、夢幻能におけるシテの唐突な退場によって、現実の世界にぽつねんと取り残されたワキ方の姿に似ているようなのだ。

「瀕死の白鳥」の衝撃

さて、ここで話は大きく変わるのだが、川端康成が「雪国」を執筆した、1930年代、40年代の日本における西洋舞踊の受容・理解はどの程度にまで進んでいたのだろうか。
島村が、東京に妻子を養いながら、雪国の温泉宿に長逗留を許すほどの経済的余裕を、その執筆活動が賄っていたというのは疑わしいにしても、彼が書く西洋舞踊の紹介文や批評文に一定の需要があったというのは確かだろう。
それが特定の好事家の間に流通する雑誌なのか、同人誌的なものかは別にして、その頃(1930年代)にはすでに西洋舞踊というものが日本人の生活や意識の中に浸透していたということなのだろうか。

アンナ・パヴロワ

「雪国」の執筆開始の1935(昭和10)年から13年ほど遡った1922(大正11)年のこと、ロシア出身のバレリーナ、アンナ・パヴロワが世界巡演の一環として来日し、東京の帝国劇場をはじめ全国8都市で公演を行った。
今からちょうど100年前のことである。
パブロワの名声は当時の日本にもすでに伝わっていて、チケットは極めて高額だったにも関わらずすべて完売、大入り満員の盛況だったというのだが、何より、「バレエ」なるものを見たこともなかった一般大衆の間にその存在を知らしめ、わが国において西洋舞踊が定着・普及するきっかけを作ったと言われている。 

その帝国劇場での公演を芥川龍之介も見ていて、「露西亜舞踊の印象」と題した文章の中で、その時の演目の一つ「瀕死の白鳥」について、「僕は兎に角美しいものを見た」と賞賛したことはよく知られている。
しかし、である。
その他の演目や公演を見た芥川の受けた印象は少し異なったようである。
彼は次のように書いているのである。 

 「一体西洋の舞踊なるものは独楽のようにぐるぐる廻ったり空中へひらりと跳びあがったりする。あれは衛生上には少なくとも観客の衛生にはあまり好結果を与えないものらしい」
 「一体アンナ・パブロワの舞踊は巧妙とかなんとかと思う前に骨無しの感じを与えるのである。実際我々日本人は骨無しと評するもの以外にああいう屈曲自在を極めたしなやかな身体を見ることはない。骨無しはもちろんグロテスクである。僕はこの感じのために、不気味になったり、滑稽になったり、角兵衛獅子を思い出したり、パブロワもロシアの酢を飲むかなどと下らないことを考えたり、要するに純一無雑なる鑑賞の態度にはいれなかった」

こうして引用してみると、何だか芥川には残酷なような気もするのだが、当時の日本における最高の教養人といってよい芥川龍之介にして、ことバレエに関してはこの程度の認識だったのである。いわんや多くの一般大衆が西洋舞踊を受け入れる土壌はほぼ皆無といっても過言ではなかっただろう。それが、その後の10数年で驚くほどの進展を見たということなのである。 

日本バレエの黎明期

アンナ・パヴロワの訪日公演以降、バレエを習いたいと希望する者が急激に増えたというが、その受け皿となったのが、エリアナ・パヴロワである。
エリアナ・パヴロワはロシア貴族の娘として生まれたが、ロシア革命を逃れ、母妹とともに祖国を捨てて日本にたどり着いたと言われる。それが1921(大正10)年頃のことである。
当初、横浜で社交ダンスを教えて生計を立てていたが、アンナ・パヴロワの舞台に触発されて急増したバレエ希望者のために、1927(昭和2)年、鎌倉七里ヶ浜にわが国初のバレエ専門の教室を開設した。その門下からは、日本におけるバレエの第一歩を飾った多くの人材が輩出されたのである。
エリアナは門下生とともにバレエ団を結成、各地を巡業して好評を得たばかりか、戦時下の将兵慰問にも参加している。彼女は慰問巡業先の南京で亡くなったが、その働きががわが国におけるバレエ受容の土壌形成に大きく貢献したことは間違いない。

 もう一人、わが国の「バレエの母」と称されるのが日本人外交官と結婚し、1936(昭和11)年に来日したオリガ・サファイアである。
来日後、当時の日劇ダンシング・チームのバレエ教師に就任にしたオリガは、伝統的かつ正統派のロシアのクラシック・バレエをわが国にもたらした最初の人であり、技術のみならず理論や、バレエ上演のノウハウといったものをわが国に定着させるのに多大な貢献を果たした。彼女のもとからは、第二次世界大戦後の日本におけるバレエ・ブームを支えた多くの人々が影響を受け育っている。
      (以上、公益社団法人日本バレエ協会のHPから一部引用)

 こうして見ると、100年前のアンナ・パヴロワの訪日公演がわが国にもたらした影響がいかにエポック・メイキングなものだったかが分かるのだが、1930年前後になると、バレエばかりでなく、大正前期に帝国劇場歌劇部教師だったジョヴァンニ・ヴィットリオ・ローシーの門下だった石井漠、高田せい子はじめ、ドイツに留学した江口隆哉、宮操子などのモダン・ダンスの舞踊団、さらには浅草に創立されたカジノ・フォーリーにおけるレヴューなど、多彩な西洋舞踊が活況を呈しはじめている。 
川端康成もまた、こうした舞踊界のうねりの中に身を投じた一人であった。

批評家を批評する川端康成

川端は、1929(昭和4)年に小説「浅草紅団」を執筆したように、当初は数多くのレヴューを見て歩き、入れ込んでいたようだが、カジノ・フォーリーに出演していた梅園龍子という美しい少女との出会いから、彼女を大衆娯楽の踊り子ではなく芸術舞踊家に育てようという野心を抱き、それを契機としてバレエの世界に関心を寄せていったことはよく知られている。 
実際、川端はその頃から舞踊に関する文章を多く書いていて、「わが舞姫の記」(1933年)の中では、「この頃は読む小説の数よりも見る舞踊の数のほうが遙かに多い」と言っているほどだ。
ただ、自身の立場については、あくまで素人の舞踊愛好家であるとして、日本の舞踊の発展のためにそれを紹介する宣伝広告塔であるという自覚と使命感を持っていたようだ。 
そのうえで川端は、専門の舞踊批評家を鼓舞するように次のように書いている。 

 「一般に西洋舞踊を見る予備知識の乏しい日本では、見物の無理解を嘆く前に、親切な啓蒙が必要である。これは批評家の義務でもある。私が批評家または研究家に望むところは、自ら舞踊の実際運動に身を投じて泥まみれになるほどの愛情と熱意である」
                    (「舞踊界実際」1934年) 

さらに川端は、舞踊批評家に対し、批評が「道楽」になっているとして、その知識不足や勉強不足を批判するのだが、次の文章には目を惹かれる。

 「 見もしない舞踊を評論するなんか、全くたわいない話だ。法螺吹きの毛唐の本を、そのまま受け入れるよりしかたない。見ない舞踊に対しては、なんの懐疑も幻滅も、実感として生じるわけがないから書物や写真で西洋舞踊を見物するほど結構なお道楽は、またとないだろう」 
                     (「舞踊界私見」1934年)

 実に強烈な批判だが、誠に興味深い文章である。
ここでやり玉にあがっている批評家の姿勢は、まさに「雪国」で描かれた島村が西洋舞踊に対する時の姿勢そのものではないだろうか。

陰画としての主人公像

川端は、自分が書く小説の主人公に、自身が批判してやまない「お道楽」にうつつを抜かす舞踊評論家の姿を織り込んだのである。
川端が「島村は私ではない」と明言しているのは先に紹介したとおりだが、私でないどころか、自身が忌み嫌う評論家の姿をあえて映し込んだのは何故なのだろう。

 仮説として考えられるのは、ネガフィルムのように川端自身とは白黒反転した島村を造形することで、その陰画を背景として、雪国の世界に匂い立つような駒子の姿を浮かび上がらせようとした、ということなのだが、どうだろう。
興味は尽きない。

余談

1930年代、40年代の文化的動向は実に興趣尽きない面白さがある。
本稿で触れた舞踊界黎明期の動きはもちろん、その時代は演劇、映画、浅草オペラが活況を呈し、池袋モンパルナスと呼ばれる絵描きや彫刻家の一群が割拠し、田端文士村の人々もいた。
それらの人々がダイナミックに交流し、大きな文化のうねりを作り出していたのである。戦時中、それらは弾圧を受けながらもしぶとく生き抜き、戦後にまた新たな文化芸術を生み出す土壌となったのである。
誰かそんな群像の劇や読み物を書いてくれないだろうか。


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