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「ゴジラ-1.0は何がマイナスなのか」―ゴジラ-1.0感想・考察―

 ゴジラ-1.0、新作ゴジラとしては、日本産ではシン・ゴジラ(2016年)以来、モンスターバースのゴジラ作品の続編音沙汰無き今、ゴジラ不足に陥り始めたゴジラファンたちの欲望を満たすように、生み出されたゴジラ作品である。
 多くの人の期待と不安、その一心を集められた作品、ゴジラファンの端くれである私も、公開日初日に見に行かざるを得なかった。
 シン・ゴジラでも、モンスターバースも素晴らしいゴジラ作品だ。しかしそれらでさえ、私は何かが満たされなかった。
 何が足りぬのか?

 近年の作品は、ゴジラを超自然的生物として描きすぎか?
 私の大好きなアンギラスが未だに出ないことへの鬱憤?
 シェーとかもう二度としなさそうな雰囲気?

 近年のゴジラ作品は、言い換えれば個人的にも「-1.0」な作品だったわけである。良い作品が多いが、しかし満点まで一歩足りない、そんなイメージがあった。そんな中、まるで私の個人的心象を反映したかのようなタイトルを冠する「ゴジラ-1.0」が発表されたことで、私の期待値は一気に上がってしまった。それと同時に「あーあ、ゴジラ-1.0もやっぱり-1.0だったな」みたいなことになってしまうことへの恐れもあった。

 今回はそんな期待と不安の中で、公開初日に見に行った「ゴジラ-1.0」を、数日間咀嚼し、出した感想と結論を、長々と述べていきたいと思う。そして今回は二つのテーマを設けたい:

〇近年のゴジラに足りなかったもの(=マイナス)とは何だったのか
〇そもそも本作「ゴジラ-1.0」は何が「マイナス」なのか?

 この二つのテーマを主軸に、ゴジラ-1.0の批評を行っていこうと思う。

 ちなみに、これだけは前置きしておくが、私にとって「ゴジラ-1.0」は、「ゴジラ」映画史上、初代に並ぶ唯一無二の傑作だった。ゴジラに興味が無くとも、本作の初見の良さを損ねるべきではないだろう。とはいえ、「ネタバレ」を喰らった程度で、作品の良さが失われるほどの、脆弱な作品ではないのだが。


1、ゴジラ-1.0のテーマ:「反戦」

 さて、ここからはネタバレ満載の「ゴジラ-1.0」に関する感想を述べていく。まず初めに、本作の時代設定は、太平洋戦争末期から、戦後にかけてを舞台としている。初代以降、ゴジラは断続的ではあったが、各時代、要所要所にゴジラが作られていることを踏まえれば、ゴジラが現代に至るまで、カバーできなかった時代はないと言って差し支えない。
 だが、その一方で、初代から何度も「ゴジラ」と「原子力、あるいは行き過ぎた科学主義」は結び付けられていたが、直接「ゴジラ」のテーマが「反戦」を設定されたことは珍しい。通称GMKでも、ゴジラと戦争は間接的に繋がっているが(強いて言うなら、「ゴジラ(1984)」には東西冷戦への言及が行われるが)、本作では劇中でも繰り返される通り、文字通りゴジラは「太平洋戦争と地続き」の現象なのだ

 「怪獣映画、かくあるべき」などと説教臭いことを言いたいわけではないが、しかし私個人が怪獣映画に期待することは、「キングコング(1933)」から変わらず、常に「人類の過激さと傲慢さへの批判」である。勿論エンタメ性も大好きだが、ゴジラが常に「環境破壊」や「社会問題」を射程に入れて作られてきたということに、重箱の隅をほじるような反論はできても、「そういうもんじゃない」と一言で言い返すことはできないであろう。

 さてでは、なぜ今、改めて、「反戦」がゴジラのテーマとなったのか。当然、それは今の日本、そして世界が「戦争」への切符を握り始めたからに他ならない

 ロシアのウクライナ侵攻に、多くの国家が震撼した。中東やアフリカで今までも、そして今も起きている戦争など、自分とは関係ない、そんなものは自分の国では起きるはずがない、そう「思い込んでいた」人々の、幻想が見事に砕かれたからだ

 また、こと日本では、第二次大戦終わって久しく、既に戦時中の経験を持つ人も数える人しかおらず、広島・長崎の被爆者も高齢の人々だけになった。そんな中で、第二次大戦の日本の軍事的侵攻を、「アジア解放」と美化し、更には「戦争」という行為についても殊更「勇ましいこと」を言う人も増えたように思う。特に一番問題なのは「かつての戦争に行った年齢」でもなければ「これから戦争に行く年齢」ですらない人々の、扇動にも似た「好戦的態度」であろう。

 国際的な問題と、日本における問題、この二つを踏まえれば、「反戦」は当然今こそ語るべきテーマである。この「ゴジラ-1.0」のテーマは、ゴジラとしても、時勢としても、決して間違った選択ではないだろう。

2、「ゴジラとは何か」

2-1、ゴジラの役割

 さて、そんなテーマを与えられ、また第二次大戦中に現れるという珍しいゴジラは、従来作品以上にその役割は大きく、重要である。
 というのも、ゴジラという「自然物」に、「社会問題」を反映させることは場合によっては説教臭くもあり、そして場合によっては「無味無臭」の意味のないものになってしまいかねない。また今までの作品でも、社会問題を反映させようという試みは多くあったが、その場合はゴジラそのものではなく、むしろ「ゴジラの対戦相手」に、その役割を担ってもらうことも多くあった。公害問題のヘドラ、自然破壊については「ゴジラvsモスラ(1992)」、また一つ変化球として、「ゴジラ×メカゴジラ」は、メカゴジラの操縦者かつ、作品の主人公に女性が選ばれるなど、女性の社会進出を反映させている。(勿論多くの作品では、社会問題、環境問題だけでなく、当時のSFなどの流行など、娯楽面からの影響も多々あることは留意すべきだが。加山雄三とか、赤塚不二夫とか)

 話を戻そう。ではなぜ社会問題をテーマとするとき、ゴジラではなく、それ以外の怪獣や人物に、その役割を担わせがちなのか?

 その答えは単純である。ゴジラはどの作品でも、一貫した設定、背景を持つわけではないが、その根幹にあるものが「原子力」だからだ。「核の脅威」が前面に押し出されることのない、娯楽重視の作品でもなければ、ゴジラは常に「原子力の申し子」であるしかなかった。

 そして実際「反戦」をテーマにした今作のゴジラは、意外なほどに「原子力」や「核兵器」からは切り離されているとは言わないが、強くは言及されない。実際ゴジラは、かつては恐竜のような超大型爬虫類で、水爆実験の際に被曝、巨大化したことが作中で語られるが、戦中末期から戦後の作品にも関わらず、広島・長崎への言及は行われない。そして繰り返しゴジラについて言及されることは、登場人物にとってゴジラが「戦争の続き」であるということだけである。

 実際、似たような境遇を持っていたのが、通称GMKゴジラ、「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」である。ここではゴジラは「戦争の犠牲者の怨念」であることが暗喩される。「反戦」のテーマを同じく担っているように見えるGMKゴジラだが、-1.0とGMKでは根本的な差異がある。それは「GMK」は、ゴジラと対戦する「護国聖獣」や、「怨念」といったキーワードからもわかる通り、オカルト方面に振った作品なのである。この手法を用いれば、ゴジラを「自然物」から「社会問題の化身」へと変化させることは可能だ。しかし今更新たに作られるゴジラ最新作で、オカルトを取り入れることは、挑戦的な試みになってしまうし、それを期待する人々も少ないだろう。
 確かに、「-1.0」作中、ゴジラが「戦争中亡くなった兵隊」と比べられる場面があるが、それは特攻隊勤務でPTSDを負った主人公の心から生まれた観念である。つまり、ここでも結局「ゴジラ」に「社会問題」を担わせることはできなかったむしろ対戦相手である「人類」に、ゴジラを「戦争の続き」と思わせることで、この「反戦」という「社会問題」をテーマ化させることに成功した、という点では、先述のいくつかのVSシリーズにも共通する方法である。
 
 しかしその場合、核兵器への言及が少ない本作において、「ゴジラ」という存在が浮いてしまうことになる。実際、本作のゴジラは、役割としては「人々に戦争を思い出させる」ための負の象徴でしかなく、どちらかといえば「舞台装置」という役割に留まっている。従って自然の権化ですらなくなった、シンゴジラ並みに感情移住の難しいゴジラである。同じく反戦のメッセージ性を持っていたGMKゴジラも、「戦死者の怨念」であることから、やはり生き物というよりも、「超自然的存在」の類である。
 
 あくまで個人的意見だが、私はゴジラは多少感情移入ができた方が好きで、特に昭和ゴジラのような「核兵器で住処を追われた人類の犠牲者」という「生物としてのゴジラ」が好きなので、水爆実験が目覚めの原因とはいえ、イマイチ私の好みからは外れるゴジラ像ではある

2-2、ゴジラのデザイン

 さて、本節では、ゴジラのデザインなどについて論じたい。本作のゴジラは、シンゴジラほど奇をてらってはおらず、むしろ昭和的な「どっちかというと可愛い寄り」のゴジラである電車を咥えているゴジラとか、凄い可愛かったよね。昔飼ってた愛犬思い出しました。
 一方で、背中には平成シリーズも驚きの荒々しい背びれが伸び、モンスターバースシリーズのゴジラ並みにマッチョな、近代的ゴジラでもある。コメディチックな愛らしさを持つ昭和ゴジラと、怪獣王もかくやといった最強を体現したかのような、モンスターバースゴジラが好きな私にとっては、ご褒美のようなデザインだった
 またCGも圧巻の出来で、「見せ方は上手い」シンゴジラとは違い、ハリウッドシリーズのような「真正面から見ても大迫力」という、素晴らしい特撮作品だった。特にシンウルトラマンに少しばかり失望していたところに、迫力もリアリティも完全に段違いの映像美を見せつけられたので、私は思わず言葉を失った。(特に海での戦い、これは素晴らしい出来で、確実にゴジラシリーズどころか、全ての怪獣映画史上五本の指に入るもの。必見)

 一方で、その能力については、ややシンゴジラ寄りの「超生物」的な存在であることが強調されている。熱線を吐く前には、背びれが光ながら不気味に隆起し、更に顔を半分吹き飛ばされても再生するという、再生能力も披露した。私はどちらかというと、こういう「自然を逸した存在」としてのゴジラはあまり好きではない。しかし一方で考えさせるところもあった。
 実は-1.0ゴジラ、熱線を吐く度に、自分の身も焦がしている、ということが表現されている。確かにゴジラvsデストロイアなど、ゴジラが自身の持つエネルギーに蝕まれ、自壊する様子が描かれることはないわけではなかったが、熱線の度に傷つくというのは斬新な設定である。しかし考えてみればこれは普通の事で、ゴジラが熱線を吐く際に、全くその熱で身体が傷つかないのであれば、ゴジラの身体は自身の熱線程度のエネルギーであれば、耐えられるということを意味する。そんなに強い体を持たれると、それこそオキシジェンデストロイヤーでも持ち出さなければ人類が勝てるわけも無し、むしろ「身体は重巡洋艦くらいの砲撃でも傷つき、また身体の内部からの攻撃は更に通用する」が、一方で「ある程度なら再生するので死なない」という設定は、ゴジラvs人間の作品では都合が良いものだし、悪くないと思えた。

 だが、どこか、「核実験で超能力を得た怪物」というのは、アメコミとかではまぁそれなりによく見る設定ではあるが、それを「ゴジラでやるのはどうなのよ」という躊躇いもないわけではなかった。この設定自体は「ゴジラvsキングギドラ(1991)」にも見られるものであり、特に「太平洋戦争中に恐竜が現れ、その後原子力の力でゴジラに巨大化した」という-1.0の設定も、この「vsキングギドラ」以降よく見られるゴジラの設定と瓜二つである。そのため斬新なわけではないのだが、ただやはり、平成ゴジラシリーズによく見られた「核エネルギーをゴジラのパワーアップアイテム扱い」する場合は、出来る限り「強くもなれるが、それにゴジラ自身も苦しんでいる」様子が無いと、あまり好きになれない、というのが個人的意見である。

3、「特攻に意味はない」

 さて、ここまで「何だよ、冒頭で-1.0を散々名作とか言っといて、『昭和ゴジラの方が好き』としか読み取れねえ文章書きやがってよ!!」と思われたかもしれないが、実際私が最も素晴らしいと感じたのは「人間ドラマ」の部分である。昨今、どこか怪獣映画の人間ドラマを軽視する風潮があるが、これは明確に誤りである。初代ゴジラは、芹沢博士や山根博士、その娘恵美子の間で展開される人間ドラマこそ、傑作たる所以である。ゴジラを「人間の開発した科学兵器の犠牲者」として描く以上、人間側の苦悩が描かれなければ成立しないからだ。
 一方、本作、ゴジラ-1.0は、神木隆之介演じる主人公「敷島」を中心に、素晴らしい人間ドラマが展開される点が、魅力の一つである。特に、「生き残った者の苦悩」を、元特攻隊の敷島や、空爆で家族を失った「典子」や安藤サクラ演じる隣人、その他、帰還兵や元兵器技術者など、様々な視点から論じていく真摯な姿勢はまるで連続ドラマのような、繊細さがあり、それでいて濃密さがあった

 途中から主人公が神木くん、あと安藤サクラさんが出てくることもあり、「らんまん」か「まんぷく」でも見てんのかと錯覚するくらい。あとNHKといえばや吉岡秀隆さんも、「やさしい猫」とか「金田一シリーズ」で見事な演技を(ry

 主人公が特攻隊ということもあり、本作は「反戦」の裏テーマ、あるいは関連テーマとして「特攻」が位置付けられている

 そして実に痛快な点は、やはり「特攻は、作戦としては全く無意味なこと」だと、はっきりと断じている点であろう

 特攻隊は、「特攻賛美」という「暴力的な当時の日本国家システム」を擁護する言説において、殊更「必要な犠牲」「国の礎を築いた」などと、言われることもあった。また単に政治的な部分だけでなく、娯楽作品においても「ドラマチックな展開」にするため「命を引き換えに勝利を掴む人々」を、大なり小なり美化することは、そう珍しいことではない。

 しかし、一方で、ゴジラ討伐作戦を提唱した技術者である野田は、こうした「命を捨てるような日本軍の作戦」を「我々は命を無駄にし過ぎた」と断じたうえ、主人公と深くかかわる佐々木蔵之介演じる「秋津」も、こうした人命・人権軽視なわりに、見栄えばかりは良く見せたがる姿勢を、戦後も変わらぬ「日本のお家芸」として批判する。また、ゴジラとの戦いにおいても、「またあの戦いに戻れというのか」と、帰還兵の苦悩を思うままに口に出させ、また戦いに参加する人たちも、生存の確率があること、また無理強いの作戦ではないことを聞いて、「太平洋戦争よりはまだ(ゴジラと戦った方が)マシ」と言わせるなど、赤裸々なまでに「戦争は駄目」というメッセージが繰り返し強調される

 そして「ゴジラとの戦いでは犠牲者が出ないことを誇りにしたい」という作戦の立案者野田の言葉が、視聴者にも深く届いただろう。これは「生き残る戦い」であって、「命がけ」ではあっても「命と引き換え」の戦いではないことを念押しするのだ。

 しかし、一方で、登場人物の心情では、理想論では終わらない苦痛もある。特に戦争を経験していない若い世代を戦いの場から遠ざける人々や、どこか「最後の戦い」と意識している人々の姿には「結局死ぬことを覚悟している」様子も描かれる。そしてその極めつけが、元特攻隊の敷島が独自で進めていた「ゴジラ特攻作戦」であった。敷島は、戦中のPTSDだけでなく、同居していた典子を、ゴジラの襲撃で失ったことで、やや自暴自棄になりかけていた。

 作戦の仔細については、本作を観劇した人しかこのnoteを読んでいないだろうから、あえて省略するが、つまり結局野田の提案した作戦は失敗、予想通り敷島が特攻作戦へと転ずる展開となる。野田の作戦で身体が弱り、熱線を吐こうとするゴジラの口に、敷島が爆弾を積んだ飛行機で特攻

 しかし、敷島は、ゴジラの口に突っ込む前に、脱出装置で離脱した後、無事帰還する。また野田の作戦下でも犠牲者は結局殆ど出ることはなかった(ゴジラが襲撃した際には、流石に犠牲者はかなり出たが)。そう、本当に特攻が有効な作戦なら、単に脱出装置を付ければいいだけなのだ。脱出装置を付けず、特攻をしたこと、それは「勝つため」の作戦などではなく、勿論「生き残るため」の作戦でもない。単なる愚策、そして同時に「国民の命などなんとも思わない」という政府の思想の現れであり、「政府による自国民の虐殺」以外の何物でもないのだ。

 英雄の死を悼むのではなく、皆で生きて帰ったことを喜ぶ最後は、本作の「反戦」と「特攻」のテーマの中で一貫したものである。尊い犠牲など生み出そうものなら、それはテーマに反する展開だ。そう皆生きて帰った。

 しかも敷島の恋人も生きていた!
 更にバラバラになったゴジラも実は死んでいなかった!!
 文字通り、この作戦では誰も死んでいないのだ!!!

…………
……

「なんでやねーーん!!」

 実際、シンゴジラやGMKでも、ゴジラを倒した後にも、ゴジラ復活の予兆を描かれることはあったが、「戦争/災害を忘れるな」という教訓をメッセージに含め、更にオカルトチックなGMKや、敢えて誤解を恐れず言えば、「庵野っぽい」シンゴジラは、まぁ不死身でもいいか(あと東日本大震災の後であるならば、災害は常にいつ起きるかわからないというメッセージになり得る)、とは思う。その点において、-1.0も確かに、「反戦」のテーマである以上、「忘れるな、戦争の恐怖はいつでも蘇る」というメッセージだということはわかる。
 だが、問題は、敷島の恋人が助かった理由である。典子は、最後のシーン、ゴジラの身体が破片から再生していく前に、首元に黒い痣のようなものがあることが描かれる。これは明言こそされていないが、おそらくG細胞のようなものであって、ゴジラが暴れた後の放射線を浴び、人間もまたゴジラミュータント化してしまったのでは?ということが推測できる。というのも典子、頭の包帯や、腕のギプスなどはしていたものの、あれほど吹き飛ばされていながら細かな傷は殆どないのだ。
 ゴジラが放射能で再生能力を得たように、典子も同じ力を手に入れてしまったのでは?という推測は決して突飛なものではないだろう。だがもしそうなら「反戦」のテーマにおいて一番重要な「尊い命」と「死」の対比が崩れてしまわないか?フランチャイズ用の伏線なのか、シンゴジラ・GMKリスペクトなのかはわからないが、しかし観劇直後、私が-1.0を「詰めの甘い作品」と思ってしまう一要因だった。

4、戦争とは何か?

4-1、戦争の被害者

 実は、この作品を見ていた時、私が最後の場面に至るまで、少しだけ思っていたことがある。それは「少し軍人中心すぎやしないか?」ということである。
 主人公の敷島含む、ゴジラとの戦いに挑む人々の多くは、帰還兵か、あるいは戦争を経験した人々である。物語の形式上、仕方のないことではあるが、最初の東京空襲で亡くなった人々だけでなく、ゴジラ襲撃の犠牲者たちの話もあまり描かれない。観劇中は特にそこまで気にしていなかったのだが、最後の場面を見た後、一気に冷めた私は、そうした点もまた「負の要素」として目立って見えてしまうようになった。それこそ、安藤サクラ演じる隣人が子を失った時や、典子の両親の死、彼女が赤子を拾ってきた時の状況、これらをもう少し注目するだけで、その印象も随分違ったのではないか、と思う。

 さて、一旦本題から外れて、少し余談に入りたい。さっきからGMKやvsキングギドラ、シンゴジラの要素を持ち出しては「-1.0の駄目だった所」みたいに言ってるので、「お前、ただのGMK、平成シリーズ、シンゴジラアンチだろ」と思われそうなので、一応注釈しておく。

 私はゴジラが「人類の科学技術で住処を追われた哀れな生命であってほしい」という願望がある。初代ゴジラが何故「反核」のテーマ足り得る作品なのか、それはゴジラという一見すると人類の敵のように見える怪獣が、実は人間の発明した「核兵器」の「被害者」でしかなかった。一見すれば理解の及ばぬ巨獣が、芹沢博士と共に、海の泡となって消えていく様に、言い表せぬ憐憫を覚えてしまう様が、たまらなく好きなのだ
 そういう要素が好きなせいで、GMKやvsキングギドラ、シンゴジラのような「超自然的生物のゴジラ」に違和感を覚えるのは確かである。だがだからといって、これらの作品、嫌いか、と言えば、普通に好きである。それはよりはっきりと言ってしまえば、「作品の性質」を先に知っている、というのが大きい。

 GMKゴジラが「戦死者の怨念」であると言われ、「護国聖獣」とか神秘的存在に怪獣が言われていても、GMKの作品自体が全体的にオカルトな作風なので受け入れられる。
 ゴジラが恐竜から核兵器でパワーアップした姿、と言われても、vsキングギドラという作品が、タイムスリップや未来人の出てくるSF作品なので 許容できる。
 またシンゴジラは、まぁ庵野なので、ということで、正直特に気にもならなかった。また「虚構VS現実」という構図において、ゴジラの「超自然的存在」の強調は決して悪手ではない。

 つまり、結局「映画そのものの画風」と「ゴジラの性質」が一致している限りは、突飛な設定がどれだけ飛び出そうが、構わないのだ。好きになるかはまぁ別の話ではあるが。

 だが-1.0は違う。本作はオカルトもSFも許容できぬ作風の中でありながら、ゴジラはただ舞台装置として存在するだけ。しかも核兵器で超能力を得て、身体がバラバラになっても再生する。結局観劇直後は、「CGや俳優の演技は素晴らしいが、どこかちぐはぐな作品」という印象をぬぐえなかった。

 だが一日たって、私はゴジラ-1.0について、改めて考えてみた。特に「本当にゴジラは戦争を象徴するだけの舞台装置なのか?」という、私の根本的な受け取り方への懐疑である。
 
 そして一日、三連休の旅先の温泉宿で考えていると、あることを思い付いた。しかも、その思い付きは「感情移入できない舞台装置的なゴジラ」「放射能が生命を不死身にすること」「戦火の中での軍人以外の人々の苦しみが描かれないこと」など、ここまで述べてきた「個人的な-1.0の不満点」を全て解決してしまったのだ。

 私は、こう思うようになったのだ。

「本作のゴジラは、被曝者の象徴なのでは?」

4-1、核と戦争

 どういうことか?
 ゴジラは、先程も述べた通り、放射能を浴びて、異常な巨体、熱線や超再生など超能力を得た。一見するとパワーアップに見えるものだが、本当にこれは単なる「パワーアップ」なのか?
 
 もし、再び、あの世界でゴジラが再生したらどうなるか?間違いなくゴジラは再び縄張りを守るため、人類に戦いを挑むだろう。文字通り、その身を核の炎で焼きながら。言い換えるとゴジラは「人類に勝つまで、永遠に核の炎の中で苦しみ続ける」存在になる。

 そしてそれは、ゴジラの放射能を受けた人々にも同様である。彼らはゴジラの力で死に至るような重症でも、たちまち再生してしまうのだろう。だが、もし通常の被曝のように、身体を蝕み、害するものでもあったら?あくまで推測の域を出ない、が、ゴジラもゴジラ放射能に被曝した人々も、今後永遠に苦しみ続ける運命なのだとしたら?

 そう考えれば、ここで興味深いことがわかる。
 つまり-1.0のゴジラもまた、昭和ゴジラと同じ「核兵器の被害者」なのではないか?

 実際ゴジラを「戦争の化身」ではなく、「被曝者」として見た場合、もう一つわかることが「何故ゴジラ-1.0は戦後すぐの時代設定なのか」という疑問である
 
 歴史を見るとわかりやすいが、日本でも、広島や長崎の被曝者が、社会の関心を集めるようになるのは、戦後すぐではなく、通称「原爆医療法」という被曝者への援護施策が行われるのも、戦後10年後の1957年のことである。反核運動の高まりも、第五福竜丸の被曝事故以降のことで、まさに「初代ゴジラ」の時代である。

 「-1.0」は単なる「初代ゴジラ以前」だけでなく、「本当のゴジラの恐ろしさ(核の脅威)を知ることは、これからである」ということも含意されているのではないか、という仮説を私は提案したいのだ。

 「生きるために戦う」「生き延びた者の責任」といった-1.0で描かれたメッセージが、今後「生きることの苦しみ」へと移っていくことが示唆されているのだ。

 勿論テーマとして、-1.0が「反戦」であることは変わらない。しかしこと日本において、戦争と核兵器は切り離せないものとなっている。現在、世界で行われる戦争においても、核の脅威は常にちらついている。そして明確に「戦争」と「原子力」を結び付ける原点こそが、「太平洋戦争」だ

 マイナス1というのは、その点において、本映画では多義的な意味を持っていることがわかるだろう。それは劇場公開前の情報からもわかっていたことである。

 〇初代ゴジラよりも、前の時代設定。
 〇戦後日本がマイナスからのスタートであったということ。

 この二点は、実際多くの人達から予測されていたマイナスの意味であった。だがそこに私はまた一つの意味を付け加えたい。
 つまり、「戦争が核と結びつく」一歩手前、「人が本当に核の恐ろしさを知る」一歩手前、それこそが、-1.0の正体なのではないのか?

 ゴジラの最後の復活、そして典子の首元の痣には、「日本の戦争がまだ終わっていないこと」、そして「これからも、常に戦争と核の脅威はあり続ける」という、未来(つまり現代)へのメッセージであると同時に、忠言として機能する。確かに広島・長崎で被爆した世代は、もう数少なくなり、日本では「被曝者」と呼ばれる人は徐々に減っていくだろう。だが、それは戦争と核兵器が日本から無くなるわけではない。
 戦争と原子力の体現者であるゴジラは、まだ死していない。戦争とは何か、原子力とは何かを忘れ、楽観的な人間たちを、海の底から睨み続けている。
 今の世界と日本は常に、その悲劇の一歩手前(=マイナス1)にいる。
 そして日本が再び惨劇の中心地、「グラウンドゼロ」にいつなるともしれないことを、我々は忘れてはならない
という、そういうメッセージだと、私は受け取った。

まとめ

 さて、ここまで長々と語ってきたが、最後に本論を纏めようと思う。

・「ゴジラ-1.0」は、そのストーリーテリング、CGIの面からも、歴代最高傑作といっても過言ではない。
・一見すると物足りない本作「ゴジラの象徴性」だが、深読みすれば、そこには「反戦」だけではない「反核」に対する力強いメッセージがある。

 しかしだからといって、完璧な作品ではない。勿論物語、あるいは芸術作品とは「常に足りぬもの」なのであり、特に商業的な作品になればなるほど、表現の幅は狭まってしまう。映画は特に引き算の美学が常に求められ、従って物足りない描写は常に付きまとう。
 ゴジラ-1.0ももちろん例外ではない。特に気になる点は、やはり「主人公敷島」以外の描写の物足らなさである。本作はどうしても「敷島」の戦争が中心にあり、それ以外の人々は、どこか「敷島の為」にあるように感じてしまう部分が多い。恋人(厳密には違うけど)の典子、安藤サクラ演じる隣人、そして典子が拾ってきた赤子など、いずれも空襲によって大事な何かを失った人々が登場する。だが彼らの抱える問題や葛藤は、敷島がPTSDで頭を悩ませている隣で、いつの間にか氷解し、いつの間にか敷島を支える側になっている。

 敷島は確かにバランスの良い人物だ。軍人でありながら、特攻隊であり、空襲で親を失っている。戦争、特に太平洋戦争の惨劇を一つに集めたような人物だ。しかし彼を悲劇の中心のようにすることは、作劇においては便利かもしれないが、どこか不誠実のようにも思える。
 敷島のような人物が戦後にいなかった、と言いたいわけではない。だが彼と同じく、奥歯を食いしばりながら、戦後を生き抜いた人々は、彼だけではないはずだ。「反戦」というテーマでは、一人の英雄よりも、人々の連帯にこそもっと重きを置いて欲しかった、という個人的印象はあった。

 しかしこれは大きな瑕疵とはなり得ない。良いものだからこそ、小さな傷は目立つというものである。私は映画人ではないが、それでもあれ以上人物描写を膨らませてしまえば、頭でっかちなものになってしまうことも重々承知である。

 さて、今回、「ゴジラ-1.0は何がマイナスなのか」という点をつらつらと述べてきたが、その一方で、もう一つのテーマ「近年のゴジラに足りなかったもの(=マイナス)とは何だったのか」については、あまり触れてこなかった。だが実のところ、この要素は本論の中で随所にちりばめてきた。

 この映画を見て、その後、その内容を反芻する上で思ったことは、やはり私は「ゴジラは感情移入できる存在であってほしい」という願いが強いのだということだった。時には可愛らしく、カッコよく、哀れでもある。怪獣という空想上の生き物を、何故私が好きなのか、その原点が、やはりゴジラにあることを、思い出したのだ。一度、ゴジラ-1.0のゴジラは感情移入しがたい、と述べたが、少なくとも今の私にとっては、本作のゴジラはもはや感情移入できる存在だ。彼は核兵器の被害者であり、そして戦争の被害者でもあるからだ。

 そしてもう一つ、思ったことがある。それは「ゴジラはこれから作り続けられて欲しい」という願いである。この願いは、昨今の世界情勢を聞く度に、日に日に強まっている。ゴジラが作られる、ということは、まだ我々の社会が「警鐘」が可能なものであるということを意味している。最早惨劇への歩みが止められない社会になってしまえば、もうゴジラが作られることはないだろう。

 ゴジラが作り続けられる社会のためには、常に悲劇の一歩手前、「-1.0」以前の世界で留めておく必要があるのだ。
 それこそ、私含め「ゴジラファン」皆が、ゴジラ作品をこれからも楽しむために、必要な努力なのだと、私は思う。

終わり。


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