シュメールとポリティカル・コレクトネス


はじめに

「女優ではなく俳優」
「Womanではなくfemale」
「看護婦ではなく看護師」

 昨今、ジェンダー平等の理念のもと、多くの「性差によって生じる言葉」について、「性の格差の無い言葉」への代替が推奨されている。男性と女性で区別する必要のない職名、あるいは「女性がする仕事」といった偏見を払しょくするため、例えば、看護婦や保母などは、看護師、保育士といった言葉に切り替わり、また女優もできる限り俳優と呼称することも増えてきた。
 また、男性が優位で、女性が劣位であることを示す表現、ジェンダーロールを指定するような表現についても、上記の事例程ではないが、変化が現れている。例えば「夫」のことを「主人」と言うような、家父長的な表現も忌避する傾向がある。また欧米圏でも、広く「人間」を意味する"man"に対して、「女性」を表す場合にしか用いられない"woman"の非対称性の指摘などもある。(なお、時折「"man"と"woman"を、"male"と"female"に変えても、何も変わってない」という指摘があるが、maleをmanのように人間全体を表すために使われることは、現代ではほぼ無く、またmanありきのwomanに対して、maleの語源はmasculine「男性」などと同じラテン語の"masculus"、femaleの語源はfeminismなどと同じラテン語の"femina"なので、実は語源的にも現代の用例的にも、maleとfemaleの使い分けは理にかなっている)
 更に性の多様化に伴い、he/she、「彼」「彼女」など、二元論的性のあり方に囚われない、第三の性を表す三人称の普及なども、昨今では珍しくなくなってきた。
 
 こうした、急速的な言葉の変化(と言っても看護婦などを看護師と呼ぶようになったのは、もう20年も前のことだが)に、辟易とし、更には「言葉狩り」などの強い言葉で否定する人々の姿も、SNSやネット上でチラホラと見かける。

 きっと彼らに、
・「夫」と「妻」という言葉ではなく「配偶者」という言葉しかない
・「息子」と「娘」は使わず、「子ども」という言葉だけ使う
・女性の神に「女神」という表現を使わず、男性の神と同じく「神」と呼ぶ
・三人称は「彼」「彼女」のように、性によって使い分けない。

 といった社会を紹介したら、きっとこう思うだろう。

「なんてポリコレに支配された社会なんだ」

 しかし残念ながら、今あげた事例は、「ポリコレ」どころか、英語すら存在しない、現代から遡るほど、約5000年前の言語、古代メソポタミアで台頭した人々、シュメール人の用いた言語、シュメール語の特徴である。
 
 新たな言葉使い、つまり「ポリティカル・コレクトネス」が、しばしば伝統的価値観を重んじる人々や、アンチリベラル思想の人々によって、「伝統的な価値観を踏みにじり、社会を混乱させる」「伝統的な表現を取り締まる、言葉狩り」とまで言われることがある。しかし実際、男女の二元論や、固定された性役割に抵抗する、これらの新たな言葉使いによって、そんな社会の混乱/問題は起こり得るのか?それを、シュメールという古代文明を通じて議論するのが、本論の目的である。

1、現代の諸問題と、古代・未開社会

 さて、本論へと移る前に、実はこのnoteには、参考文献、というか、インスピレーションを受けた著書があるので、それについて紹介したい。それは、構造主義などで有名な人類学者の大家、クロード・レヴィ=ストロースの著作である。
 今、我々の社会では、同性婚であったり、または妊娠できない夫婦の間で、「人工受精」「体外受精」などが広く行われている。これについては、数々の議論があることは、読者も知るところだろう。
 しかし、レヴィ=ストロースは、こうした一見、現代の、それも先進国だけの社会問題に思える「人工受精」の問題が、人類学者が研究するような未開社会にも存在し、更にはそれが「解決されている」とまで、大胆に言い放つ。以下の文章は、アフリカのブルキナファソのサモ族に見られる、レヴィ=ストロースに曰く「精子提供」及び「子宮貸与」の事例である。

ここでは、娘たちは非常に若いうちに結婚しますが、夫のもとで生活を始める前に、最高三年間は、自分で選び、公にも認められた愛人をもつことができます。 こうして娘は、愛人とのあいだに生まれた最初の子供をつれて夫のもとに嫁ぎますが、この子供は、正式な婚姻による最初の子供として認められるのです。

…中略…

同様に妻が不妊症である場合、夫は受胎能力のある女性に代償を支払って、次に生まれる子供の父として指名してもらうことができるのです。この例では、正式の夫は精子提供者であり、女性は別の男性や子供のない夫婦への子宮貸与者になるわけで、ここでは、現在フランスで焦眉の問題となっている、子宮貸与は有償であるべきか無償であるべきかなどという問題は、存在すらしません。

レヴィ=ストロース、2005年『レヴィ=ストロース講義』平凡社ライブラリー、87-88頁。

 レヴィ=ストロースは更に、ナイジェリアのヨルバ族について、以下のように述べる。

ナイジェリアのヨルバ族〔ナイジェリア南西部に住む農耕民〕においては、金持ちの女性は妻をめとって、男性と家庭をもたせます。こうして生まれた子供は、法的夫であるこの女性の子供とされ、現実の両親が子供を手元に置くためには、この女性に高額の支払いをしなければなりません。
 これらの例では、ホモセクシュアルとも呼びうる女性のカップルが、男性から精子の提供を受けて子供をつくり、一方が法的父、一方が生物学的母となることができます。

レヴィ=ストロース、2005年、89-90頁。

 つまりレヴィ=ストロースは、現代の同性婚のカップルで行われているような卵子提供、代理出産、精子提供が、別に現代の先進文明特有の文化・技術ではなく、むしろ広く行われていると指摘する。

たとえば、処女、独身女性、寡婦、同性愛のカップルのために人工的出産を行なうようなことも、他の社会でそれに相当することが、不都合なく行なわれている事実を指摘します。

レヴィ=ストロース、2005年、94頁。

 またレヴィ=ストロースは、ヴィーガニズムについても興味深い論考を行っている。ヴィーガニズムは、現在世界中でも多く広まりつつあるが、レヴィ=ストロースは、そもそも肉食という行為が、人肉食、つまりカニバリズムと全く同じものであるとする。

ところがいくつかの無文字民族は、肉食をカニバリズムのほとんど和らげられていない一形態 だという逆の見方をする。これらの人々は、何らかの親族関係をモデルにして猟師(または漁師)と獲物との関係を人間化する。それは婚姻による縁戚関係であったり、もっと直接には配偶者間の関係であったりする(…中略…)。こうして、狩猟や漁撈は、一種の内向き〔同族内〕のカニバリズムにみえるのである。

レヴィ=ストロース、2019年『われらみな食人種』創元社、204頁

 我々現代人は、近代化以降長らく、人肉食を驚くべき、野蛮な行為とみなして忌避していた一方、肉食の生活を続けてきたが、つまりそれは、我々現代人でさえも、実際には食人を続けていたのであり、そしてそれは広く社会に流布されていた。レヴィ=ストロースは、ヴィーガニズムの台頭について、食糧危機や狂牛病なども原因だと考えているが、しかしむしろ彼はあくまでそれらの要因は、肉食離れを加速させたに過ぎず、根本的な原因には、食人を野蛮・間違いとしながら、肉食を行い続ける、その矛盾への意識・無意識的な気づきだという。レヴィ=ストロースはこう続ける。

かつての自分たちは食糧を得るために生き物を育てては殺し、その肉を切り刻んでショーケースに満足気に並べていたという見方に立って、アメリカやオセアニアやアフリカの野蛮人の人肉食に対して一六、一七世紀の旅行者が抱いたのと同じ嫌悪感を抱く日がいずれやって来るだろう。

レヴィ=ストロース、2019年、206頁

 勿論、我々現代人の社会の問題、その是非を、未開社会では「答えが出ている」からと、殊更に認定するべきではない。そうした性急な答えを出すこと自体には、実際レヴィ=ストロース自身も待ったをかけている。
 だが、私はこれらの文章を見て、ある種の気づきがあった。人工受精なり、菜食主義なりを否定的に見ている人々の言説が、しばしば「伝統的ではない」「自然ではない」というものだった。だがレヴィ=ストロースの文章を読むと、「初めから『伝統・自然ではないから間違い』と決めつける根拠が、そもそも無いのではないのか?」、そう思えてきたのだ。

 ここで「いや、同性婚も、体外受精も、菜食主義も、伝統的な価値観の中で議論できるよ」と反論しては、「伝統か否か」の水掛け論になるだけなので、さほど有意義ではない。だから、私が描きたいのは、あくまで「社会の急速(に見える)な変化を、『非伝統的だ』として踏みにじることの無益さ」である。
 我々の立つ人間社会は、同性婚にしても、菜食主義にしても、『異質な慣習』として認めないほど、不寛容な世界ではない。そうレヴィ=ストロースの著作を読んで思っていたが、その意識を強めた経験を、私も最近したのだ。
 今、私が目下勉強中のシュメール語を見ていると、どうにも「言葉狩りだ」「伝統の破壊だ」と強く否定される、ポリティカル・コレクトネスが、どうにも「伝統を破壊する」ような、「異質なもの」とは思えなくなっていたのだ

2、基本形の「男」、付属的な「女」

 さて随分長く前置きをしたが、ここから本題の内容に入っていく。まず初めに、シュメールの人々が話していた言語、シュメール語について、現代のジェンダー理論を通じて見ていく。
 現存している言語において、ジェンダーの二元論的な区分が珍しい言語は少ない。また単に男女の単語が一対一で対応しているものではなく、中心的な単語が男性に用いられ、そしてその中心的要素に女性の意味を付け足すことで、女性名詞に変化させることが多い。
 ちょっとわかりにくい説明だったので、例をあげよう。
 例えば、英語のmanは、「人間」であり、そして「男性」を意味する。
 この語に、女性の意味を付け足して、womanに変える。actorやprinceは、actoressやprincessのように、女性名詞に変化させる。
 こうした「基本形は男性格」で、「女性格にする場合は、女性の要素を付け足す」という現象は我々の日本語でも同様の現象が見られる。「彼」や「王子」「神」という語には、文字だけ見れば男性か女性の意図は無いはずだが、これらは殆ど男性の場合に使われてきたもので、女性の場合は「女」を付け足し、「彼女」「王女」「女神」などと変わる。

 こうしたことが、日本語でも英語でも見られるのは、決して偶然ではないだろう。我々の価値観にはどこか「人間の基本形」が「男」であり、「女」にするには、そこに女の要素を付け足す必要性を感じてしまう。
 最近こそ見られなくなったが、ピクトグラムなどで、男女を描き分ける際に、「男」のピクトグラムに、スカートを付けることで「女」を表現する事例などは、昔からよく見られた。つまり我々は「男」を基本形にして、そこに付属語の「女」を付けたすことで、文字にせよ図像にせよ、「女」を表現してきたのだ。

 この「基本形の男」/「付属品的の女」という、支配的慣習が、有害か否か、それはここで論じたいことではない。だが、こうした慣習が一切問題が無いかと言われれば、そうではない。性の二元論は、ノンバイナリーといった人々からすれば、ややこしい問題を引き起こしうるものである。本章では、こうした支配的な二元論のジェンダー観と、それがもたらす問題、そして、それらを古代のシュメール語を通じて語っていく。

2.1 人称代名詞

 例えば、仮に三人称であれば、彼、彼女の対立はノンバイナリーの位置づけを困難にさせている。そのため英語圏では、ノンバイナリーの人称代名詞に"they"を使うことが、一般的になっている。私はアメコミも趣味だが、最近ノンバイナリーのキャラクターを見かけることも増え、やはりthey/themが基本的に用いられているように思える。
 このように、第三の人称代名詞を使う方法は、有用な反面、しかしそもそも疑問として「人称代名詞を男女で区分すること自体が、こういう問題を引き起こしているのではないか?」と私は思わなくもない。
 特に日本語では元来三人称の「彼」はジェンダーの区分無く使われており、またそもそも日本語では「彼/彼女」という言葉は、話し言葉としてはさほど用いられない。実際、三人称の代名詞に「he/she」のような二元論的対立を持たない言語は決して珍しいものではない。

 そして、今回扱うシュメール語についても、三人称には「彼/彼女」を持たない。例えば"lugal-a-ni"という例文を出そう。
 これには、「王」を意味する"lugal"に、三人称所有格を意味する"a-ni"がついている形である。つまり訳すと「彼の王」という意味になるのだが、しかしa-niは、先述の通り、男女の区別を行わないため、「彼女の王」である可能性も否定できない。従ってシュメール語の三人称代名詞の翻訳は、基本的には前後の文脈に従って、「彼/彼女」を訳し分けることが一般的となっている。この今風に言えば「ジェンダーニュートラル」なシュメール語の代名詞だが、しかし他にもこうした事例は多く見られる。 

2.2 社会的役割とジェンダー

 さて、冒頭に紹介したいくつかの事例について迫ろう。
 現代日本語のバイナリーは、多くの名詞、とくに人間の社会的役割については、多く確認できるようになる。
 女の神は「女神」、女の子は「娘」、女の配偶者は「妻」……この手の事例を出そうと思えば、いくらでも出せそうだが、しかしなぜこのような「女」であるかどうかをはっきりさせる必要があるのだろうか?
 男性か女性か、それで配偶者を言い分けていては、男でも女でもない性の配偶関係を表すことができない。最近では英語圏などでは単に配偶者を表す"spouse"や、あるいは"partner"などが用いられることも増え、後者については日本語圏でもカタカナ英語の形で見られることも多くなった。
 現代社会において、こうしたジェンダーニュートラルな表現が、新たに発明される一方、しかしシュメール語を見るとこうした我々の元来持つ二元論的な性の表現ではなく、先程の代名詞のような、ニュートラルな表現が散見されるのだ。

 ここで日本語である例文を出そう。

「(A)は(B)の夫、(C)の息子、神(D)に愛されし者」
「(A)は(B)の妻、(C)の娘、女神(D)に愛されし者」

 A~Dについては、各々何か固有名詞が入ると考えてもらえれば結構である。さて、この文章、固有名詞の部分を無視してシュメール語に訳すとどうなるだろうか?実は上の文章、どちらも以下の一文で表現することができる。

 "(A), dam-(B), dumu-(C) ki-ág dingir (D)"

 流石にシュメール語わからん人にはなんのこっちゃ、だと思うので一つ一つ要素を分解していこう。
 まず最初の"dam"、これは「配偶者」を意味する語で、男性でも女性でも用いることができる。例えば、女性神のイナンナが、配偶神をdamと呼ぶこともあれば、男性神エンキが、配偶神をdamと呼んでいる事例もある。
 次に"dumu"であるが、これについてはやや変則的である。というのも女性の子どもの場合は、「女」を意味する"munus"を付け、"dumu-munus"とする事例も多い。一方女性神のバウが、「神アンの子 dumu an-na」と呼ばれていたり、女性神のニンマルが「神ナンシェの長子 dumu-sag nanše」と呼ばれているなど、「女」munusを付けない事例も決して珍しいものではない。
 そして最後の"ki-ág dingir"、これは"ki-ág"が「愛した」を意味し、次の"dingir"が「神」なので、これで「~神の愛した」となる。あまりこういう例文で、このように訳出することはない(通例、神名の前に置かれるのは限定詞と呼ばれるもので、訳することは無い)。だが例えば"dingir-a-ni"「彼(女)の神」と書かれる場合に、男性神だから女性神だからと、何か使い分けたりはしない。
 つまり、仮に現代人がシュメール語を話していたとして、
 "dingir-a-ni, dam-a-ni, dumu-a-ni"
 と書かれた文章を現代の日本語で訳せば、「彼の男性神」「彼の妻」「彼の息子」かもしれないし、「彼女の女性神、彼女の夫、彼女の娘」かもしれない。更には、「彼の無性の神、彼の夫、彼のノンバイナリーの子」であっても構わないわけである。

3、ジェンダーと伝統 ―「強い女」の神話―

 さて、改めて繰り返しにはなるが、私は別に、「古代からジェンダーニュートラルが意識されていた!」などと言いたいわけではない。実際今回シュメール語を事例に取ったが、シュメール語には"nin"のように、もっぱら女性にしか使われない表現だったり、更には、シュメール人の後、メソポタミアに台頭するアッカド人が用いるアッカド語は、人称代名詞も、名詞も動詞も、全部男性女性で変化する。 
 古代を見て、ポリティカル・コレクトネスの理想の地が存在するわけではなく、そして私はそんな主張をしたいわけでもない。

 ただ今我々が直面し、議論の的となっている事柄、つまり「ノンバイナリーに配慮した第三の性なんて非科学的で非伝統的だ」という主張なり、「同性婚とそれに伴う体外受精なんて、自然に反する」といった議論が、果たしてどこまで「正しい」のか?それらの言説に対する疑問符を付けることが、本論の目的である。

 昨今、ポリコレと言えば、何かと表現の自由に対する、攻撃かのように扱う人々が多く見られるが、しかし実際、こうした対立は、単に「リベラルな表現」の台頭に対する、「保守的表現」愛好家の嫌味以上の意味はない。

 例えば、最近「強い女」という描写は、珍しくなくなったが、こうした表現に対して、「ポリコレ」を見出す客層は多かれ少なかれ存在する。特にワンダーウーマン、キャプテンマーベルなどが代表だが、最近であればバービーなども記憶に新しい。
 上述の作品にフェミニズムの影響がないとは誰も言わないだろう。ワンダーウーマンやキャプテンマーベルは、多少フェミニズム的主題を、エンタメヒーロー映画のプロットとCGIで包み隠しはしたが、バービーなんて最早フェミニズムでフェミニズムをラッピングしたかのような作品である

 ではこれらの「強い女」像は、果たして現代のフェミニズムによって、新しく形作られたものなのか?

 ここで再びシュメールに戻る。
 シュメールの神話において、最も著名な神といえば、誰か?
 恐らくシュメールに詳しい人々は、「イナンナ」と多く答えるだろう。
 
 イナンナ、アッカドではイシュタルと呼ばれ、楔形文字文化のメソポタミアでは、シュメールと言わず、その後のバビロン、アッシリアに至るまで、長く広く信仰を集めた女神である。
 そんなイナンナの最も有名な役割といえば、美の女神の側面であろう。ヴィーナスのように、金星の性質を持ち、性愛の象徴でもある、美しい女神である。しかしイナンナの権威は、それに留まらない。
 イナンナは戦争の女神でもある。手には荒々しく、強力な武器を持ち、敵を荒々しく打ち破る。アテナの如き勝利の女神である。
 そして、イナンナは王を愛する神として、王権を司る性質を持つ。シュメールの王は、「イナンナのお気に入り」をこぞって名乗り、そしてイナンナから「王権」を頂く。
 しかし、イナンナの最も中心的な権能、それこそが、その名が体現する「天の女王」である。「天」を体現する神であり、シュメールの最高神であるアンの子にして、神々の世界、天を支配する女王こそ、イナンナの根源的な役割である。
 性愛、戦争、王権、天空、多くの権能を持ち、時には艶めかしいエロスの体現者でありながら、時には槌を手に取り敵を容赦なく叩きのめす戦士にもなる。まさにワンダーウーマンやキャプテンマーベルに代表される、「強い女」、それがイナンナである

 「強い女」像は、シュメール神話だけに留まらない。

 エジプト神話には「セクメト」という女神がいる。エジプトの最高神ラーの子であり、その名前は「力強き者」を意味する。「戦の際は王の敵に火の息を吹きかけ焼き殺す」という、荒々しい戦の女神でありながら、王の母としての側面も持つ女神である(『古代オリエント事典』、559頁)。
 奇しくも、シュメールのイナンナとエジプトのセクメトの役割や地位は、実によく似ている。どちらも、既に「暇な神 Deus otiosus」となりつつある最高神の子であり、ある側面では王に寄り添い、王権を守護する愛人/母であり、ある側面では敵を容赦なく打つのめす荒々しい戦士である。

 他にもインドのドゥルガー、マヤのイシュチェルのような、破壊神の側面を持つ女神や、先述のギリシャのアテナ、北欧のフレイヤのように戦争を司る女神は、多くの神話で広く見られるものである。
 
 再三言うが、私は「だから強い女の方が伝統的な女性像なんだ」と言いたいわけではない。これらの女神を「強い女」として解釈することは、現代の色眼鏡で古代の資料を都合よく見ているに過ぎない。しかしフェミニズムの台頭で、現代の表現の場に数多く流行している「男よりも強い女」というのは、少なくとも「悠久の人類史に逆らうような描写」とは言い切れないのではないか?

 勿論、だからといってワンダーウーマンやキャプテンマーベルを「車輪の再発明」と言いたいわけではない。むしろ、分厚いカギ括弧付きの「伝統」が覆い隠して見えなくしていた「強い女」という、「女」の中にある役割の一つを、再発見したことこそ、フェミニズムやリベラリズムなどの「多様性」の探求の中の最大の成果と言えるのではないか?
 言い換えれば、時代に迎合した新たな型枠を用意することではなく、元々一つの型枠だけしか使われてこなかったのに対して、その型で切り抜かれた外側の「生地」に注目することこそが、ポリティカル・コレクトネスではないだろうか?

4、まとめと補論

 さて、長くなったので、私の結論を一旦纏めたいと思う。

・ポリティカル・コレクトネスに基づくジェンダーバイアスの是正や、ジェンダーニュートラルな表現の提案に対する「伝統の破壊」や「歴史的に正しくない」という反論は、古代文明の言語や神話などを見ると、決して正しくはない。

 先述の通り、このnoteは、レヴィ=ストロースの著作に影響を受けて作ったものである。だが実際このnoteを書こうとしたきっかけは、以前amazon primeで提供されていた指輪物語の外伝ドラマ、「力の指輪」に関する議論である。以降は補論となる。結論は既に終わっているので、興味のある人だけ読んでいただければよいと思う。

 力の指輪では、今までの指輪物語の映画化とは異なり、肌の色が白くないエルフが登場することで、非常に注目を集めていた。
 最初はこの「有色のエルフ」に反対する多くの人間が「肌の白くないエルフは原作破壊」だと論じたが、多くのトールキン研究者がすぐさま「別にトールキンの小説でエルフという種族の肌の色を規定する部分は存在しない」と反論することになった。(余談だが、小説嫌いの私だが、指輪物語は例外的に大好きで、子どものころ邦訳を読んでいたのだが、この騒動で、原著原文の指輪物語を読み始めたのは良い思い出だ)。

 さて、こうした反論に対して、そこで肌の白くないエルフを認める風潮になったかと思えば、しかしその二の矢として放たれたのが「トールキンの指輪物語は、中世以前の西欧社会がモデルなので、有色人種が入り混じる世界は歴史的に正しくない」という、表現議論とは別の角度での歴史認識議論に展開し、その後も結局「肌の白くないエルフ」は「ポリコレによる表現改変」だと信じてやまない人々が減ることは無かった。

 もうすでに、「肌の白くないエルフは原作破壊」という言説は、しっかり反論されきっているので、ここでは追求しないが、その次の言い訳として現れた「指輪物語は中世以前の西欧社会がモデル(なので肌が黒い人種がいるのはおかしい)」という点について軽く論じておきたい。

 これについては、実はすでにSNSなどでは多く反論が来ていたのだが、実際西欧中世社会が、白人のみの世界だったかと言われれば、実はそうではない。中世西欧社会、10~16世紀までの図像・文書史料には既に肌の黒い、アフリカ系の人々が描写されており、また西欧社会は、その歴史のスタート時点から、アフリカや中東との関わりの深い地域である。
 古代ギリシャの哲学者、ストア派のゼノンが小アジア、あるいは北部アフリカの出自であることは有名な話だが、古代ギリシャでは、メソポタミアやエジプト、アナトリアなどと、長らく交流をしており、その後ローマの台頭以降も属州として北アフリカや中東との関係は続き、またフン族の侵入や、中世以降は「ムーア」と呼ばれる、中東やアフリカの出自を持つイスラム教徒のイベリア半島などへの流入があった。
 
 つまり、そもそも「黒人のいる中世ヨーロッパ」が「歴史的に正しくないポリコレの産物」ではなく、むしろ「白人しかいない中世ヨーロッパ」というモデル自体の方が「歴史的に正しくない」のだ。従って、「指輪物語は中世以前の西欧社会がモデル(なので肌が黒い人種がいるのはおかしい)」は反論として成立していないのだ。

 このことは非常に重要な示唆に富んでいる。西欧中世社会の有色人種のように、同性愛者も性別違和も現代だけに存在するものではなく、有史以来常に存在した。それと同じように、ジェンダーニュートラルな表現も、ジェンダーバイアスのない表現も、決して人類史において「異質」なものではない。

 今、リベラリズムの台頭によって、現代社会の「人間」の型枠が積極的に否定され、その型枠の外側に注目され始めた。ひょっとすると、この型枠が破壊された後に、新たな型枠が作られるかもしれない。人間の歴史を見ていると、その繰り返しが何度もされてきたことは明らかであることからも、今後それが完全にないと断じることはできないだろう。いずれ「女は強い」「男は家事をする」という新たな型枠が生まれ、それに抵抗して、今の我々が暮らす時代の女性像や男性像が、いずれ「再発見」されることもあるかもしれない
 だがそんな心配をする必要はしばらくはないだろう。今もなお「黒人は粗野で暴力的」「女は子を産む機械」といった偏見を恥ずかしげもなく披露する人々は後を絶たない。少なくとも今ある型枠が破壊されない限りは、そんなことは起こりえないのだから。

終わり。

注釈

 今回シュメール語を用いたが、以前どこかのnoteでも書いたが、私はシュメール語は独学で勉強していて、特に専門の研究者から指導を受けたものではない。今回のシュメール語に関する文法や、気質などは、あくまで私の「私感」であって、研究者の中で議論されていることではないので、悪しからず。

 
 
 

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