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第二章1985年~現在 トレーナー活動期第一回 渋谷・新宿プロショップ

第二章1985年~現在 トレーナー活動期
第一回
渋谷・新宿プロショップ

25才になり激動の1年間が“閉店”“失業”という結末で終了し軽い放心状態で新たな年を迎えることになりました

やり切った感はありましたが、早くも二度目の就職活動の必要に迫られ、花田学院の恩師である溝口先生の門をたたきました

まだまだ、トレーナーという職種がシッカリと形作られていない時代でしたが少しずつ世の中に浸透し始めている時でもありました

紹介して頂いた新しい職場は、当時一世を風靡していたスーパーダイエー系列のスポーツプロショップ内にあるトレーナールーム専属トレーナーの仕事でした


以前プロショップがあった場所は、お洒落なパンケーキ屋さんに
引用元:Google社「Google マップ、Google Earth」https://www.google.com/intl/ja/permissions/geoguidelines/

代々木公園から少し下った渋谷公園通りに面したビルにサッカー、バスケット、バレーボール、陸上のプロショップがあり、奥のスペースにトレーナールームが完備されている店舗でした

ベッド2台に低周波、超音波、など物理療法機器を完備した素晴らしい治療室でした
業務内容は、プロショップでユニフォームなどの注文をしてくれている高校、中学などのチーム試合時の帯同、治療室でのケアーなどを販売促進の一環として無料で行っていました

稼働率といえば・・・
土日は試合会場帯同がありますが、平日は夕方までほとんど患者さんが来ません・・・

時間だけがたくさん有り過ぎです

さてどうしましょう??

今であればパソコンを使ってインターネットでしょうが、1980年代はインターネットが存在していません

そこで≪本≫を読みあさりました

当時のスタンダードな情報収集方法です

半年が過ぎ、やっと新しい職場にも慣れてきたときに緊急ミーティングが行われ

「2週間後にこの店舗を閉店する」
「お得意様などに連絡をするように」
「スタッフの再配置はおって連絡する」

まさに青天の霹靂・・・

またもや“試練”“挫折”“苦労”“失業?”

「まだ終わらないのか?・・・」

「25歳になったのに・・・」
「まだまだ若いっていうこと?」
「まだまだ“試練”“挫折”“苦労”が必要なの?」

社員ではなく年契約で就職していた野﨑は店長に尋ねました
「野﨑の残り半年はどうなるんですか? 契約解除ですか?」

店長
「ううん・・・ちょっと待ってて」

そして3日後

店長
「新宿に系列店があるからそこに行って」

なんと簡単な通達

何とか契約解除、失業をまぬがれてホッとしたのもつかの間

このビルの6Fにプロショップがありました
引用元:Google社「Google マップ、Google Earth」https://www.google.com/intl/ja/permissions/geoguidelines/


新宿店に行ってみてビックリ、同じようなサッカー、バスケットのプロショップでした

渋谷店にあったトレーナールームなど影も形もありません

一難去ってまた一難(涙)(涙)(涙)

「何をすればいいの??」

新宿店では、またもやトレーナーではなく普通にショップの店員さんとして勤務をすることになりました💦

調布スポーツクラブと同じ状態の再現(涙)(涙)(涙)

初対面の人と話すのがあまり得意ではなかったので
生まれて初めての販売員、不安しかありませんでした

しかし、実際にお客さんと対面してスパイクを販売すると、医学的なアドバイスなどが功を奏して結構売り上げが良かったです(笑)(笑)(笑)

お客さんのニーズを聞き出す方法、傾聴力、説明力などが鍛えられました

しかし、本業の方はまったくアガッタリです

スパイク販売、棚卸、背番号圧着、レジ打ち、ポップ描き、などなど
トレーナー業務とはかけ離れた業務の毎日でした

“試練”“挫折”“苦労”の再現

ところがこの期間中に今後の人生に大きな影響を与える二つの出来事がありました

一つ目は、将来の伴侶となる最愛の妻、由美子さんに出会えました
プロショップがあった同じフロアーにプーマのアンテナショップがあり、そこでアルバイトしていました

「かわいい人がバイトに入ってきた!!」
「トレーナー活動はできないけれど、由美子さんに会える!!」
「新宿店に来てよかった!!」
「若い野﨑はウキウキでした」

いま思えば“まさに全てに意味がある”“感謝”

二つ目は、「トレーナーとは?」という、シンプルな命題の答えに近づけるキッカケに出会えたことです

1980年代は1994年に「日本体育協会公認アスレティックトレーナー」が設立される以前で、だれでも「自称トレーナー」としてトレーナーになれた時代です

今では一般にも普及しているテーピングが、やっと日本に浸透し始めた頃でした

「自称トレーナー」であった野﨑は、鍼・灸・マッサージを駆使して治療は行えますが

テーピングが・・・

当然アスレティックリハビリテーションなどは存在していません(涙)

当時ジョンソン&ジョンソンがテーピングの講習会を行っていたので、出来る限り参加しました

必死です

プロショップでのトレーナー活動を行いながら、そうこうしているうちに、NATA ATCの存在を知り、恩師溝口先生にお願いして「日本人ATC第一号でいらっしゃる鹿倉二郎先生」を紹介して頂きました

契約社員である私は、一か月の休暇をもらい、1986年6月NATA ラスベガス総会にオブザーバーとして参加させてもらいました

夜でも明るいラスベガス
引用元 写真AC

4日間開催されたラスベカスでの総会は、規模、内容など、ただただ圧倒されるものでした
ラスベガスホテルのコンベンションルームで開かれていた巨大展示スペースでの展示会
講習会会場での人体解剖

その後、鹿倉さんのご配慮を頂き、スタンフォード大学の施設見学をさせて頂きました
またまた、そこでも規模、内容など、圧倒に次ぐ圧倒の連続でした

85,000人収容の【スタンフォード・スタジアム】が広大な大学施設内にあって



巨大なスタジアム
引用元:Google社「Google マップ、Google Earth」https://www.google.com/intl/ja/permissions/geoguidelines/

「大学が国立競技場なみの競技場をキャンパスの中に持ってるの!?」

と大変驚いたことを思い出します

「せっかくアメリカに行くのだから、イロイロ見て回りたいと思い」
ツテをたどって幾つかクリニックを見学しましたがそこでも驚きです

それほど大規模なクリニックではないのに、当時日本ではあまりお目にかかれない≪サイベックス≫が普通に鎮座していました

「アメリカにおけるSPORTSの存在感」
「そのSPORTSを行う環境のすごさ」

を思い知らされました・・・

ショック ショック ショック

約一か月のアメリカ自主研修を終え帰国したのですが

放心状態でした

「自称トレーナー」の野﨑は

「こんな状況でトレーナーなんて名乗っていいのか・・??」
「日本にはトレーナーなんて存在しない・・」
「何をどうすればいいのか??」

あまりのギャップに数週間はパニック状態でした

その後、悶々としながら残りの契約期間を販売員として全うし

またもや、「三度目の就職どうしよう??」

就職活動が始まりました(笑)

今回は専門学校の同級生の紹介で代々木にあるスポーツマッサージ治療室に就職できました

この治療室はスポーツ関連の患者さんが多く、所属トレーナーをJリーグ開幕前の日本リーグ所属サッカーチーム≪フジタ工業サッカー部 日立サッカー部 松下電工サッカー部 全日空サッカー部 トヨタ自動車サッカー部≫≪日本代表チーム≫にトレーナーを派遣していました

「今度こそトレーナーとして活動できる!!」

1987年27歳やっとその時が来ました!!


次回は
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第二回
トレーナー活動開始

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