Treatment

 私は窓枠に頬杖をつきながら、裏門から帰っていく人達を眺めていた。夕焼けの中、道の脇に追いやられた落ち葉の上を長く伸びた影が流れていく。
 彼あるいは彼女たちはきっと今日と同じ日が明日も繰り返されることに疑問を持ってはいないんだろう。細部は違っても大体は同じ事の繰り返しで、たまにお休みの日があって、休み明けにはまた同じ仲間の元へ戻っていく。それこそが彼らや彼女らの日常なんだ、きっと。
 開け放たれている窓からは少し冷たい風が入り込んでおり、ベージュ色のカーテンを時折はためかせている。長い髪を風が吹くのに任せたまま、ぼんやりと窓の外を眺める。
 私は夕刻のわずかな時間だけをここでの人間観察に割り当てている。自分ではない、自分とは違う他人の日常を認識し、想像し、妄想する事。それこそが退屈な日常、代わり映えのない日々、狭い鳥籠に閉じ込められた私の生活を少しの間だけ忘れさせてくれる、唯一のかすかな楽しみ。
 十代後半のうら若き乙女の貴重な青春時代を費やすには少々地味な趣味だが、今の私には必要な事だった。
 カーディガンに財布だけを小脇に抱えた人影が眼下を小走りに過ぎていく。急に何か必要になったのか、短い休憩時間を惜しんでお菓子でも買いに行くのか。本当のところは分からないが、好き勝手に考える。
誰にも邪魔されないこの時間は、唯一の楽しみだった。

「せんぱーい」

 その時、不意に引き戸をがらがらと開けながら一人の少女が入ってきた。その見知った声と顔を見て、私は自身の頬が緩んだのを自覚する。
 そう、人間観察の時間は唯一の楽しみだった、のだ。それが、今では楽しみが一つ増えていた。
 それは、この年下の少女とお話しする事。

「いやー、遅れちゃってすみません」

 言葉とは裏腹にあまりすまなそうな感じではなく、むしろ満面の笑みを浮かべながら彼女は人懐っこそうに近くに寄ってくる。遅れちゃって、と言いながら彼女が決して走ったりせず、ゆっくりと歩いてここまで来ていることを私は知っている。
 私の近くに置かれていた椅子に腰掛けると、彼女は早速目を輝かせながら手にしていた文庫本の表紙を私に見せつけるように掲げて話しかけてくる。

「遅ればせながら、この本、読ませていただきました!」

 それは先日私が彼女に勧めた推理小説だった。

「あんまり読んだ事なかった系ですけど、ちょー面白かったです!」
「そう、それなら良かったわ」

 あの伏線が、あのアリバイが、あの叙述トリックが、と小説の内容やその感想を矢継ぎ早に話し出す彼女の言葉に一つずつ相槌を打ちながら、私は不思議な充足感を覚えていた。
 誰かとこんな風に普通に会話する楽しさをしばらく忘れていたような気がする。発した言葉に反応がある。一方通行でない会話のやり取り。想像と違う返事。それは、誰かと一緒じゃないと決して得られない体験だ。そして、それを与えてくれるのは、隣で楽しそうに話す彼女なのだ。

 彼女との出会いはお昼ご飯を食べた後の食堂での事だった。
 周りの会話に入らず一人で本を読んでいた私に、彼女の方から声をかけてきたのだ。

「こんにちは! 何読んでるんですか?」

 彼女の第一声は正直、読書中の人にかける言葉としては最低ランクのフレーズだったと思う。一人の時間を楽しんでいる人に対して、見ず知らずの人間がずけずけと土足で踏み込んでいくようなものだ。
 事実、私も少し苛つきを感じながら顔を上げた事を覚えている。
 しかし、そんな私を出迎えたのは、興味津々と瞳を輝かせた少し幼い顔つきの少女の姿だったのだ。特に真ん丸で大きな瞳にまるで吸い込まれるように惹きつけられ、他の些末なものが目に入らなくなってしまった。多分、あの瞳を見てしまった瞬間から、私の日常は大きく変わってしまったんだと思う。
 不思議な魅力を携えた彼女の姿に思わず目を奪われたまま、気が付けばその時読んでいた本の内容を彼女に話していた。決して流暢ではなかった私の言葉に逐一反応しながら、彼女は真剣に話を聞いてくれていた。しかし、不意に慌てた様子で私の話を遮ってきた。

「あの! 何だかすごく面白そうなので、今度読んでみます!」

 だからその先のお話は内緒にして下さい、と柔らかく笑った彼女に、私も同じ様に笑い返していた。

 それからというもの、食堂でお互いを見かける度に何となく合流し、どうでもいい話に花を咲かせることになった。
 食堂で食べるお昼ご飯のあのメニューが好きだとか、あの先生はあんな口癖があるだとか、そんな取り留めのない話をただただ交わしていた。
 そんな風にしばらく話をしているうちに、彼女が三つ年下である事が分かった。そうすると普段は別々の棟にいる事になる。道理で彼女の姿を今まで見たことがなかったはずだ。
 お昼を私とばかり居ていいのかと聞くと、

「だって、私のところは子供ばっかりなんですもん」

 そういって彼女は不服そうに膨れてみせた。彼女にしてみれば、それこそ周りは子供ばかりだろう。私からすればあなたも子供だけどね、という言葉を飲み込みつつ、

「それじゃあ、今度こっちに遊びに来てみる?」

 そう提案してみると、彼女は凄く嬉しそうな表情で、是非、と答えてくれたのだった。
 そうして私たちは夕方の僅かな間だけ一緒に過ごす事になった。誰かに表立って咎められる訳ではないけれど、何だかいけない事をしているようでどきどきした。
 少しだけ悲しいのは、彼女が正式にこちらに来れる頃には、私は既にここを出てしまっているという事だ。
 だからこそなのか、彼女は足繁く私のところに通ってくれている。慕われているという事実が嬉しくもあり、少しこそばゆくもあった。

 彼女とはたくさんのお話をした。
 私が何かを勧めることもあれば、彼女の愚痴をひたすら聞くこともあった。時には、お互いに何も喋らず、ただただ緩やかな時間を過ごすこともあった。そんな日常が心地良く、また刺激的でもあった。こんな毎日が続けばいいと本当にそう思った。

 あるとき、彼女は私の長い髪を眺めながら羨ましそうにこう言った。

「せんぱいの髪ってキレイですよね。いいなぁ」
「あら、ありがとう。大丈夫よ、あなたも素質はあるんだから」
「私がですか?」

 私の言葉に彼女は少し意外そうにした。いやいや無理ですって、と無造作に自分の頭に手をやりながら、

「まあでも、せんぱいがそう言ってくれるなら、信じてみようかな」

 結局はそう言って、彼女はまた柔らかな笑みを浮かべるのだった。

 彼女がそこに居て、一緒の時間を過ごし、会話ができるだけでうれしかった。そんな毎日がただただ愛おしかった。

 それでも終わりはやってくる。

 ついに私がここに居られる最後の日になってしまった。
 今までお世話になった人たちに挨拶をしてから荷物をまとめて表に出ると、彼女が待ってくれていた。表門へと続く道には満開の桜が咲いているのが見えた。
 いつもは楽しそうにころころと表情が変わる彼女も今日だけは唇を噛み締めて涙が溢れそうになるのを堪えているように見えた。

「今生の別れって訳ではないのだから、そんな顔しないの」

 なるべく優しい声を出そうとしたけれど、私の声は自分でも分かるほど震えていた。
 私の中で彼女の存在が大きくなっていたように、彼女の中でも私という存在が大きくなっていたという事に、たくさんの嬉しさと少しの寂しさを覚える。
 会いに来るから、と。あなたも頑張るのよ、と励ますと彼女は必死に頷いてくれた。きっと彼女なら大丈夫。私はそう信じている。
 そうして最後に、彼女は少し涙ぐみながら私を送り出してくれた。

「退院おめでとうございます、せんぱい」

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小説未満の文章を書いています。
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