万葉短編集その②ー逃避行ー

「ひぐっひぐっ」
「おい、いい加減泣くのをやめないか」

背の高い男と、床にうずくまる少女が小部屋にいた。
男は真っ黒いスーツを、少女は白いワンピースを着ていた。
どちらの服装も清潔な印象だが、いたるところに不自然な赤黒いシミができてしまっていた。

男は泣き止まない少女の傍らに立った。
それから横顔に触れようと手を伸ばす。
しかし、何を思ったのかすぐに手を引っ込めてしまった。

「あちゃあ、汚ねぇな」

男の手には黒いゴム手袋が着用されていた。
薬局で売っているようなぴっちりとした黒いゴム手袋、それが赤い液体でべったりと濡れてしまっていたのだ。
この手で触れたら少女が汚れてしまうだろう。
彼はそう考えた。
反対の手で親指付近を引っ張ると、手袋はみるみる裏返って外れた。
反対の手袋も同様に取り外す。
男はそれらを床に投げ捨ててから続けた。

「なあ、もう泣くなって、朝比奈」

胸元からタバコの箱とライターを取り出す。
床に腰を下ろし、朝比奈と呼んだ少女に背を向ける。
シュッという音がして間もなく煙草に火が付いた。
 
くさい。
くさいな。
煙草の匂いは愛煙家でも嫌いな人は多い。
喫煙という行為が嫌いなわけではないが、煙草の臭いがどうしても嫌だという人もいるだろう。
男もその内の一人だった。

「ひぐっ…なんで…」
「ん、何か言った?」

男は煙草の煙を吐き出しながら尋ねた。
煙草の煙に気を取られて朝比奈の話を聞いていなかったのだ。

振り返って横目に彼女を見てみる。
朝比奈はピンク色の髪の毛をしていた。
根本のほうが不自然に浮いている。
恐らくはウィッグを被っているのだろう。
顔は化粧っ気がなく幼い。
涙でぐしょぐしょに濡れていた。
容姿が悪いわけでない。
表情のせいでひどく醜い顔に見えた。

「なんで…あんたは…平気なのよ」 
「え…何のこと?」

運動の後。
一仕事終えたとき。
多くの人は煙草を数本吸う。
しかしこの男に限って煙草は二、三吸い嗜むためのものだった。
いつもにおいが気になって途中で捨ててしまう。
今回もそれは変わらなかった。

名残惜しそうに煙草を眺めてから床に投げる。
床には洋服やゴム手袋に付着したものと同様に赤い液体が大量に溢れていた。
放物線を描いて落下した煙草の火はあっという間に消えた。

「だから…」
「だから、なに?」
「人を一人ぶっ殺しておいて、なんであんたは平気な顔をしてるのかって聞いてるの!」

朝比奈がむきになって言った。 
床をどんと殴りつけ大声を出す。
防音対策がしっかりとされたホテルの壁は音漏れの心配はない。
しかし近くで怒鳴られるのはあまり良い気はしなかった。

「おい、キレんなよ朝比奈」
「キレてなんかない!」
「キレてるじゃん」

中年の男性が部屋の中央に横たわっていた。
割腹がよく、頭は白髪交じり。
洋服などは身につけていなかった。
仰向けになって口をぽかんと開けている。
男はその中年男性の上に、まるでベンチに腰掛けるかのように座っていた。

「まあ…その、なんだ。仕方ない…ことなんじゃないか」

中年男性の腹を軽快に叩く。
肉を打つ音が鈍かった。
既に死後硬直が始まっているのだ。

「仕方ないって、あんたなに言ってるの!?」
「だってそうだろう。人はいつか死ぬさ」

あっけらかんとして言い返した。
すっと立ち上がり、遺体を蹴り付ける。
ぼすっぼすっと鈍い音がしたが、中年男性は青ざめたままピクリともしなかった。

「止めなさい!いつか死ぬかもしれないけど、殺されるのは違うでしょう!」
「いいや、結果は同じさ」
「違う!」
「違わない」

男は呆れ顔で朝比奈を見た。
先程まで泣き崩れていた筈の彼女はすっかり生気を取り戻し、怒った顔で男を睨みつけていた。
しっかりと怒気がこもった鋭い目つき。
さっきまで泣いていた子が、何故こんなにも怒っているのだろう。
男には朝比奈が自分に怒っている理由が分からなかった。

「寿命で死ねるならば死ぬまでに準備をしたり覚悟ができるじゃない。殺されるのは突然で理不尽なことで、無念なことだと思うわ」

朝比奈は今日一番の大声で言った。
これにはさすがの男もカチンとくる。

「じゃあお前はそのハゲデブに犯されて、子宮をザクロにされるまで待っているのが正解だったと言いたいわけだな。この男は女を再起不能にしちまうことで有名なんだぞ。皆嫌になって自殺しちまうんだ!」

我慢できなくなった男はぴしゃりと言った。
思わず朝比奈もたじろいでしまうほどの剣幕。
男はベッドに素早く移動した。
奇っ怪な玩具が置かれていた。
他にも縄や拘束具、よく分からない薬などがあった。
それらを全て手にとって朝比奈の方に投げた。

「俺はお前がこんなもので傷つけられるのは嫌だ。他のやつの生き死になんかどうでもいい」
「だからって…」

玩具は血溜まりの中に落ちた。
その拍子にスイッチが入ってしまったらしく、ゔいいぃんと奇怪な音をたてて血溜まりを泡立てた。

沈黙の数十秒。
朝比奈は投げられた玩具の様子をぼんやりと眺めていた。
徐々に音が変化していく。
振動が目に見えて大振になっていく。
玩具は遂に動かなくなった。
基盤に水分が到達したのだろうか。

「…ごめん」

消え入りそうな声で呟いた。
少なくても男の到着が少しでも遅れたら、私は悲惨な目にあっていた。
想像できる悲惨さの、その数十倍の悲惨な目だ。
もしも自分と男の立場が違っていたら自分も同じことをしたのではないか。
謝りたい。
理由がはっきりしない怒りは哀しみに変わっていた。
私は男に人を殺してほしくなかったのだ。

「動物は他者の命を奪って生きるしかないんだ。それは人間だって変わらないよ。今までだって間接的に他の動物を殺してきたんだ」

お前が謝る必要なんてないと男。
朝比奈の隣にやってきて今度こそ頬を撫でた。
栄養状態が悪いのか、肌は未成年の女子にしてはガサついていた。
手を頭の後ろに回し抱き寄せた。

「これからどうするのよ…バカ」

額を合わせた二人は呟いた。

「さあな、とりあえず逃げるしかないだろう」

暖かい沖縄か、それとも海産物が旨い北海道か。
今だったらパスポートを取って外国に逃げられるかも知れない。 
逃避行はそんなに楽じゃないよ。
いやいや気楽に行こう。
お金はどうするの。
なくなったとき考えよう。

男と朝比奈はそれから数時間、これからの逃避行について語り合った。
気がつくと部屋中に飛び散った血が固まってひび割れていた。
それだけ長い時間が経過したのだ。
思いきり語り合った後、話し疲れて床に腰を下ろした。

そういえば、洋服が生臭いなと朝比奈。
二人は身体についた血液を洗い流すため、シャワーを浴びることにした。
コスプレ用の服が部屋にあった。
裸で逃げる訳にもいかないのでそれに着替えた。
安物の服だった。
生地が異常に薄い。
加えて空調が効きすぎているせいで肌寒かった。
エアコンの温度を調整しよう。
男はリモコンに手を伸ばしたが、それを朝比奈が制止した。
二人はベッドに潜り込むことにした。

「なあ、どこか遠いとこ…行こう…誰も思いつかないような………遠い…ところ…だ」

そんな遠いところが日本にあるのかしら。
朝比奈は尋ねた。
しかし男がその質問に答えることはなかった。
突然すやすやと寝息をたてて寝てしまったのである。
呆れた!ねえ、起きてよ。
言おうとして頭をブンブン振り回す。
その発想を打ち消したのだ。

きっと本人が思っている以上に疲弊している。
冷静を装っていても人を殺めて何も感じない人間はいないのだろう。
私を不安にさせないために強がってくれている。
朝比奈はそう思うことにした。


「ありがとうね」

朝比奈は男の頭部を優しく撫でつけた。
シャンプーの甘い匂いがする。
撫でれば撫でるほどその匂いが広がった。
何だか子どもの頃にも、こうして二人で寝転んでいた気がする。

二人はまるで胎児のように布団にうずくまり、深い眠りにつくのだったーー。

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