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ごばんちょ

久しぶりに京都の五番町遊廓跡を訪れた。千本中立売を少し西へ入った一筋目を、出水のあたりまで散歩してみたのである。むかし、まだ売春禁止法が施行されぬ前まで、この界隈は「五番町」とよばれた遊興地の中心で、両側に妓楼がならんでいる。この道りだけでなく、もうひと筋西よりの通りと交叉する東西通りが何本かあって、その横筋も、辻のあたりはとりわけて、賑やかだった。青や赤の小割りした窓ガラス。左右どちらからもはいれて、す通りも出来る三角形の戸口。手すり欄干をめぐらせた二階。洋風とも和風ともつかぬ四角い木造洋館。京格子をこまかくはめこんだ連子窓のl一階をもつしもた屋風。それぞれの楼風を競って立ちならぶのだが、どの戸口にも、小火鉢をもち出して、丸椅子に腰かけた、しわがれ声のおばはんが、股あぶりしていて、「ちょいと、ちょいと、あんたア」 と道ゆく男をよびとめていた。

中立売を、千本から西へ入ったひと筋目を降りてくると、右側が寺の基地のみえる土塀になっていて、軒のひくい二階屋の妓楼が片側にならんでいた。その中はどの店で、二階の窓が、とりわけひくく、よごれたガラス障子のはまった楼だった。名はわすれたが、入口は暗い土間になっていて、左手の小部屋が妓の溜り場だった。…… 溜り場にいた妓は四、五人いた。その中で肌の白い大柄な妓が、ウチワみたいな平べったい顔をにこにこさせ、先に廊下にきて私を凝視したが、一見して、学生と直感した様子で、一瞬、考えこむふうだったが、私が帰りそうもないのをみとめると、いそいで私の手をひいた。正直いって、私には妓をより好みする余裕などはなく、誰でもよいから寝てほしかったのである。…… 私はみじめな気持ちになって、着物をいそいで着ると階段をかけ降り、おばさんが何かいうのを尻目に、外へ出た。中立売通りの方へ走った。

「五番町夕霧楼」水上勉

水上勉 の「五番町夕霧楼」は、水上がよく知る「センナカ」辺りの遊廓を舞台に、実際にあった金閣寺放火事件をテーマに1962年に発表された小説である。
読んだのは随分昔の事だったと思うが、三島由紀夫の「金閣寺」を読んだのと粗同時期であったので、その関連性からも強く印象にあった。

「遊郭」と言うキーワードにノスタルジーを感じるのは、もしかしたら水上の美しい文章のせいかも知れない。
ぼくもかつて、ほんの興味本位ではあったが、このような赤線跡、遊郭跡を訪ね歩いた頃があった。
写真はそんな若い時分の淡い記憶を反芻しながら歩いたときのものである。

他の遊郭跡と同じ様に宅地化が進んでいて、ポルノ映画館の「千本日活」が異様で目を惹く。
楼を改築したと思われる店も点在し、軒灯が残っている建物もある。

千本通りはかつて京都の中央を縦断していた朱雀大路を起源としていて、南は羅城門から洛中を経て、北は船岡山へ抜けて行く。
船岡山は風葬の地。千本通りの千本とは、道の両側に千本もの卒塔婆が置かれた様から付けられたと聞く。
鳥辺野なども同様で六波羅蜜寺の辺りには六道の辻と云う、彼岸の此岸の境とされる場所があるが、この千本も薬師寺(旧福生寺)の辺りには.やはり六道の辻があったとされ、現在では「生の六道」の石柱が残る。これは小野たかむらの伝説に起源する。

この辺りをご存知の方にはお分かり頂けるかも知れないが、千本通りそのものは現在でも賑わっているにも関わらず、ごばんちょ(「五番町」はこう呼ばれたらしい)辺り、つまり一本西なり東なりに入ると、途端に喧噪が静まるので驚くのである。
これは千本通りだけの話ではなく、他の繁華な通りを歩いてもその様に感じる事がある。

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