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ヒグラシ

もうずいぶん昔の話だけど。

たまたま平日に休みになった夏の終りのとても蒸し暑かった日。
暇を持て余していたぼくは午後からオートバイに乗って、よく行く短いツーリングルートにでかけた。
県をまたぐ道で、かつては有料道路だったが、往復で2時間くらいだから思いつきでオートバイを走らせるにはちょうどいい。

川沿いに進む道の途中、ちょうど県境に差し掛かる辺りに廃屋がある。
地元を走るライダーの間では心霊スポットとして名を馳せていた所だ。
特に他に何かあるわけでもない所なので、いつもならやり過ごしてしまうのだけど、その日に限って、ちょっと近くで見てみようかな、などという気持ちになった。
廃屋になってかなり年月が経過しているので、中に入るのは本当に危険であるので、外にオートバイを停めて外観だけを眺めてみる。

なるほど、なかなかの迫力である。
3階建てほどのモルタル外壁の建物だった。
鬱蒼と雑草が生い茂り建物全体に絡みついている。
窓という窓はガラスが割れ、入口と思しき所は扉が外れて、その奥で闇が果てしなく続くかのように漆黒の口を開けていた。
こりゃあ、夜に見たらかなり怖いよな、など思いつつ、先に進もうとオートバイに戻る事にした。
まぁ、突撃するわけもなく、見たらそれでおしまいである。

それほど山深い訳ではないが、丘陵地の始まりなので緑が豊かな所でもある。
太陽はだいぶ傾き夕方も近づいていて、遠くヒグラシが鳴くのが聞こえていた。
夏の終わりである。

2、3歩オートバイに向かって歩き始めた所で、ぼくはゾクッとした。
特に何か見たとかではなく、突然冷水を浴びせられたようにヒヤリとしたのである。
周囲を見回したが、何も変わった所はない。
だいたい建物の前の道はひっきりなしにクルマが行き交うような国道から分岐する道で、多少車通りは少ないとはいえ夜中に一人で来るとかでもなければ、そう恐怖を感じる雰囲気でもないのだ。
建物を振り返る。
じっくり見たのは初めてだったから、たぶんそのせいだろうと思った。
たしかに不気味だもんな、と。

しばらくオートバイを走らせ、かなり町中に戻ってきた頃。
ぼくはまだヒグラシが鳴いているのに気づいた。
ヒグラシの鳴き声は、あまり町中で聞かれるものではないから珍しいな、と思った。

おかしい

どんどん町中に進んでいるのに、ヒグラシの声が全く途切れない。
それどころか、だんだんと大きく聞こえていた。
いつも通る道だが、そんな所でヒグラシの鳴き声を聞いたことはなかった。
おかしいのだ。

おかしいといえば、他にもおかしなところがあった。
時間の経過がおかしいのだ。
さっきの廃屋の前でオートバイにまたがった時に腕時計を見たが、その時午後5時を少し過ぎていた。
そこから今いる場所までは混み具合にもよるが約30分程度。
だから少なくとも5時半は過ぎていなければおかしいのであるが、確認した腕時計はまだ5時5分を指していた。
時計が止まったのかと思ったのだけど、当時ぼくが使っていた時計は機械式の自動巻きなので、普通に腕につけて動いていれば故障でない限り止まることはまずない。
ぼくはオートバイを左に寄せて数分のあいだ時計の針の動きを見ていたが、なんと表現したらいいのか、時計の正常な動きとしては秒針が一回りすれば分針がひとコマ進むわけだが、時計を見ているうちにひどくぼんやりとした感覚に陥り、気がつくと秒針はまた新たな60秒を刻んでいて分針はそのままになっている。その繰り返しなのだ。
ぼくはエンジンを一旦止め、ヘルメットを脱いだ。  

「あれ?」

あれほど耳についていたヒグラシの声が聞こえない。
耳鳴りの類だったのだろうか。
ぼくは狐にでもつままれたような気持ちになった。
その時だった。

おい

男の声がした。
聞き間違いではない。
声はぼくの真後ろから聞こえたのだ。
辺りを見回しても車道の端にオートバイを停めているぼくの周辺に人などいない。

おい

また聞こえる。
中年の男の声で少し怒っているようにも聞こえる。
でも、どこにも姿が見えない。
ぼくはまた背筋がゾクッとなるのを感じた。

そんな恐怖から逃れるように、ヘルメットを被り、大急ぎでその場を離れようとした。
またヒグラシの鳴き声が聞こえている。

それから何度も走る、停めてヘルメットを取る、ヘルメットを被る、走るを繰り返す。
オートバイの走行中に発生する異音かとも思って調べてみたが、そんな様子もない。

ヒグラシの声はずっとヘルメットを被った時にだけ聞こえている。
はじめはヘルメットを取った時にだけ「おい」と聞こえていた声は、何を言っているかは分からないけれど、何かブツブツとつぶやき始め、それはヒグラシの声と同じくヘルメットを被っている間にもずっと聞こえるようになってきた。
まるでぼくだけがパラレルワールドにいるようで心底焦りはじめた。

ぼくは途中で気付き始めた。
きっとそうだ。
ああ、あんなところ寄らなきゃよかった。
全力で後悔しながら、それでもこのまま家に帰るのはまずいと考え始める。
理由なんかない。
絶対まずい。
まずいことになるに違いない。
でも、どうしたらいい。
よく怖い話なんかに出てくるような「知り合いの霊能者」なんてぼくにはいない。

そんな考えごとが、うっかりを誘発したのか、ぼくは自宅への道を間違った。
直進しなくてはならないのに、左折専用車線にいたのだ。
仕方なく左折をして、少し来た道を戻る。
もう一度左折して、元の道に戻った時に信号に引っかかる。
ぼくは何となく時計を見た。

5時10分。
進んでいるではないか。

もしかしたら、と思う。
もう少しきた道を戻り時間を確認する。
5時13分。
今度は帰る方向へしばらく走る。
5時13分。
またきた道を戻る。
5時15分。
まるで押し問答のように、その行ったり来たりを繰り返した。

このまま帰るのはまずいが、他になにか手立てがあるわけもない。
なにか意図があるなら、それに従うしかない。
ぼくはあの廃屋を目指して走り始める。
本来なら二度と行きたくない場所だが、こんな状態では他に選択肢がない。
相変わらずヒグラシは鳴いているし、男の声は、はっきりと念仏のようなものをつぶやいているのが分かるようになってきていた。
もうヘルメットがなくても聞こえるんじゃないかと思った。

手足が冷たい。
背筋から冷たい汗が背中を伝う。
暑いはずなのに歯がガチガチ鳴るほど寒いのだ。
このままおかしくなって死ぬんじゃないかと思った。

這々の体で、さっきの廃屋に辿り着いた。
ぼくはオートバイを停めてヘルメットを脱いだ。
時計を見ると6時少し前だった。
本来の時間に戻ったのだ。

ヒグラシの声が一際大きく聞こえたかと思うと、男の念仏と一緒に遠ざかり始める。

もう一度、廃屋を眺める。
もう悪寒はない。
夏の陽は暮れ始めていて東の空は青く染まり出している。

カナカナカナカナカナカナカナカナ......

ヒグラシの声が聞こえなくなっていく。
ぼくはオートバイに戻りヘルメットを被った。
もう男の声は聞こえない。

ぼくにはある不安と同時に妙な安堵感があった。
ここに戻されたのには理由があるはずだが、できたらその理由は知りたくない。
幸いヒグラシの鳴き声も男の声も聞こえない。
帰るなら今ではないか。
そう思ったのだ。

エンジンをスタートさせて、バックミラーを見た。

それは確かにそこにいた。

(これはかつて書いたものを加筆修正したものである)

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