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意を汲む

夏目漱石が英語教師をしていた頃、”I love you” を「我君ヲ愛ス」と訳した生徒に「日本人がそんな台詞を口にすると思いますか?『月が綺麗ですね』とでも訳しなさい、それで伝わるから」と言ったとか。

二葉亭四迷もツルゲーネフの「初恋」を訳す際、ロシア語での"I love you"の意 “Я люблю тебя(ヤー リュブリュー チェビャー)” を「死んでもいいわ」と意訳したと言う。

歌を聞いても、本を読んでも「愛してる」の連発だ。
終いには「愛と恋はどう違うの」とか宣う始末。
元から日本には、現代のような「愛」の概念はない。
アガペーやラブに相当する日本語はなかったのだ。
「愛い」は可愛らしいなどの意味であって、「かなし」は慈しむ意味である。
「愛」が “Love” の訳として使われ出したのは明治になってからだ。漱石や四迷の時代には、さぞ違和感のある言葉だっただろうと想像できる。

「こい」は良い。
戀は旧仮名遣いだが、いとしい、いとしいと言う心である。
これも現代の仮名遣いは宜しくない。またの心だ。下心丸見えの下品な漢字である。
まぁ強ち外れでもないのだろうが。

月が綺麗でも、死んでもいいでもいい。
言葉は手段であって本質ではないのだ。
手段であれば愛だの恋だののスタイルに囚われる事に意味はない。
もっとインディヴィデュアル、内省的で個性的であるべきだ。
愛などという陳腐な表現に纏めるべきでない。
「いい」という意味の言葉に400以上の種類がある日本語を母国語にしている日本人であるからこそ、だ。

想像力の欠如は民族的滅亡を意味する。

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