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壬生

文久3年9月18日は晴れていたと言う。
西村兼文著「壬生浪士始末記」に因ると雨とされているが16日が雨だったとする記録がある様で、あるいは16日だったのかも知れない。
酷く蒸し暑い夜だったと言う。

島原・角屋でしこたま呑み、前後不覚のまま屯所に戻って、妾であったお梅と床に就く。
平山五郎も同部屋で情婦と眠っていた。

水戸出身で尊王敬幕攘夷論者。
攘夷の名の下に商家の土蔵を焼き討ちするなど過激な行動や強請紛いの金策、更には島原での乱行など。
スポンサーである会津藩公用局からも苦言を呈せられ、近藤・土方らは苦渋の選択を迫られた。

夜半。

屯所である八木邸の玄関には土方歳三、沖田総司、山南敬助、原田左之助。
式台を上がると、無言の侭、奥の広間に寝ている二組の男女の切り掛かる。
平山は敢えなく絶命、一緒に寝ていた情婦は逃走。
芹沢は沖田に拠る一の太刀を受けながらも脇差しで顔面に一撃を与え、廊下から隣の部屋に逃げ込む際に文机に足を取られ転倒、土方から二の太刀、三の太刀を受け絶命した。
平山の胴と首は離れ、お梅も首を切られていた。

とかく壬生浪士隊は近藤・土方の目線で語られる事が多い。
清川の朝命に因る攘夷決行に異論を唱え、会津藩主松平容保に嘆願し、会津藩預かりで浪士隊を結成出来たのは誰のお陰であったか。
近藤の手腕では到底叶わなかったはずである。

ぼくは何かとヒールとして語られる事の多いこの男が好きである。
豪放磊落、癇癪持ちであるが、どこか憎めないエピソードも持つ。

壬生浪士隊筆頭局長、芹沢鴨の最期である。

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