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昔話

 東京の浅草、大阪の千日前、京都の新京極、それに匹敵するのは名古屋の大須である。そこには金竜山浅草寺ならぬ北野山真福寺があつて、俗にこれを梅ぼしの観音といふ。
梅ぼしとは、『おゝ酢!』( 大須 ) といふ駄洒落だが、実は先年まで、観音堂の裏手に『大酢』ならぬ『大あま』旭遊廓があつて、大須の繁盛したのは、半ばそのためであつた。旭遊廓は今の中村に移転したのだが、その当時、遊廓を飯の種として居た人たちは、この先どうなることかと蒼くなつたけど、観音様の御利益は、『刀刃段々壊』で、だんだんよくなつたなどなどいふのは罰当たりな駄洒落かも知れない。
 観音様の境内が、食べ物の店で占領されて居ることは、こゝに至つて名古屋の特徴が最も露骨にあらはれて居ると言つてよい。
仁王門から本堂に通ずる道は、食べ物店を迂回する、何と痛快な現象ではないか。こゝ十数年前までは、すねての民衆娯楽機関が、境内のいはゞ四面を取り囲んで居たが、今は映画が主になつて、もう、あの説教源氏節の芸子芝居は見られなくなつてしまつた。説教源氏節は誰が何と言つても、名古屋のもので、名古屋情調をたつぷり持つたものだが、今はもう、安来節などに押されて、大須から程遠からぬ旧末広座を活動小屋にした松竹座で、アメリカ本場に劣らぬジヤズが聞けるなど、時の力は恐ろしいものである。
 大須といへば縁日を思ふ。香具師はやつぱり大須を中心として活動して居るのだが、これももう追々すたれて、珍らしい芸は見られなくなつた。昔の夜の大須は、到底広小路などの及ぶべくもないほど活気があつたものだが、遊廓がなくなつてからは、げつそりと寂しくなつた。観音堂裏は、昔の不夜城の入り口で、今僅かに玉ころがしや空気銃、夏向きには鮒釣りなどで、職人肌の兄貴連を引きつけて居るが、弦歌のひゞきぱたりと途絶えて二三の曖昧宿に、臨検におびえながら出入りする白い首が闇にうごめくだけではたゞもう淋しさの上塗りをするだけである。
 スケツチでなくて何だか懐旧談のやうになつてしまつた。けれども、明治末期に生まれたモダン・ボーイならざる限り、現在の大須をながめては、その昔大須にあふれて居た名古屋情調を顧りみて惜しまざるを得ないのである。さうして一たび旧名古屋情調をしのびはじめたならば、今の名古屋で、だんだん勢力を得て来たモダン・カフエーへは、ちょっと、はいる気がなくなるのである。
 とはいふものゝ、最近の名古屋を知らうとするものは、数十軒を数ふるカフエーを見のがしてはならない。昼なほ手さぐりを要するやうな暗さの中で、コーヒーか紅茶一杯に、ものゝ三時間乃至五時間も、ウエートレスと饒舌にふける気分は、到底筆者などの、及びもつかぬ感覚であり心境であるのだ。
 尤もこれ等のカフエーが新時代の要求によつて生まれたかどうかは考へ問題である。小資本ではじめ得られて、比較的多くの収入があるといふことも、カフエーの殖えた原因の一つであらう。何しろ、大須附近に、いはゞ一ばんはじめに、カフエー・ルルが出来たのは、まだたつた三年ばかり前であるのに、それ以後、四十軒にも殖えたのは、一種異様現象でなくてはならない。はじめ易い商売だといつても、客がなければ自然につぶれなければならぬのに、ますます殖えて行く傾向のあるのは、やつぱり新時代に適して居るからであらう。
 そのカフエーと共に、今名古屋で、漸次流行しようとして居るのが、ダンス・ホールである。大阪で禁止されたゝめの一種の調節現象かも知れぬが、そのダンス・ホールの一つが中村遊郭に出来て遊郭よりもよく流行つて居るのは皮肉なことゝいはねばならぬ。といふよりも、遊郭経営者の一考を要すべき点であらう。

小酒井不木 名古屋スケツチ 

小酒井不木は医師であり、推理作家であり、随筆家でもあった。
詳細はここに詳しい。

昔を懐かしむというのは、もはや人間の性なのかも知れない。
この「名古屋スケツチ」は昭和三年ごろのものと思われるが、かつてを追想するというのは、現代ぼくなどが大須を訪れて思うことと、まったく同じであるといえる。

むかしは良かった、というのは本当だろうか、とも思う。
ぼくは昭和四十一年の生まれだが、ぼくの父親も同様のことをよくこぼしていた。
記憶というのは浄化されるから、当時に当人がいいと感じていたところだけが、まるでその全てであったかのように思い出される。
父親は昭和四年の生まれであったけれど、思春期を太平洋戦争に翻弄されているはずなので、それは「むかしは良かった」はずがない。
祖父も父親もそうだったが、彼らの口から戦争について聞くことはあまりなかったように思う。
つまりは辛い思い出であるのだろう。

ぼくなども、たとえば大学生くらいにはバブル景気に沸き立つような時代であって、それは至るところが金満家にあふれていた。
あれをいい時代とするかどうかは、それぞれに思うところはあるのだろうが、個人的には悪い記憶が想起されない。
今の口で語れば、やはり若干の皮肉を込めて「いい時代だった」というのだろう。
なにせタクシーチケットなどは「束」で渡されたりもしていた。

こと、このnoteを読み返してみても同じである。
今を嘆き、昔を懐かしむ。
これに尽きる。
しかし、これは我々の年代の特権である。
なんといっても若年層には「昔」がまだない。
ないからには懐かしむことなどできない。
若い人たちが、そういった昔話を聞かされるのを鬱陶しがるのは同調する経験や記憶がないからであって、それは至極当然であろう。
むかしは携帯などなく、彼女に電話をするにも彼女の家族という関門があって大変に緊張した、というのも、実際自分がやったことがないと、なかなか伝わりにくいものなのである。

良し悪しは個人の感想であるから、本当にそうか?と問われると答えようがない。
しかし人はいつも昔を懐かしみ、今を嘆くのである。
結局はないものねだりか。

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