小酒井不木は医師であり、推理作家であり、随筆家でもあった。
詳細はここに詳しい。
昔を懐かしむというのは、もはや人間の性なのかも知れない。
この「名古屋スケツチ」は昭和三年ごろのものと思われるが、かつてを追想するというのは、現代ぼくなどが大須を訪れて思うことと、まったく同じであるといえる。
むかしは良かった、というのは本当だろうか、とも思う。
ぼくは昭和四十一年の生まれだが、ぼくの父親も同様のことをよくこぼしていた。
記憶というのは浄化されるから、当時に当人がいいと感じていたところだけが、まるでその全てであったかのように思い出される。
父親は昭和四年の生まれであったけれど、思春期を太平洋戦争に翻弄されているはずなので、それは「むかしは良かった」はずがない。
祖父も父親もそうだったが、彼らの口から戦争について聞くことはあまりなかったように思う。
つまりは辛い思い出であるのだろう。
ぼくなども、たとえば大学生くらいにはバブル景気に沸き立つような時代であって、それは至るところが金満家にあふれていた。
あれをいい時代とするかどうかは、それぞれに思うところはあるのだろうが、個人的には悪い記憶が想起されない。
今の口で語れば、やはり若干の皮肉を込めて「いい時代だった」というのだろう。
なにせタクシーチケットなどは「束」で渡されたりもしていた。
こと、このnoteを読み返してみても同じである。
今を嘆き、昔を懐かしむ。
これに尽きる。
しかし、これは我々の年代の特権である。
なんといっても若年層には「昔」がまだない。
ないからには懐かしむことなどできない。
若い人たちが、そういった昔話を聞かされるのを鬱陶しがるのは同調する経験や記憶がないからであって、それは至極当然であろう。
むかしは携帯などなく、彼女に電話をするにも彼女の家族という関門があって大変に緊張した、というのも、実際自分がやったことがないと、なかなか伝わりにくいものなのである。
良し悪しは個人の感想であるから、本当にそうか?と問われると答えようがない。
しかし人はいつも昔を懐かしみ、今を嘆くのである。
結局はないものねだりか。