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会社を出ないと、わからなかったこと。

mustの示すところ。

will/can/mustのmustは、”やらなければならないこと”だと思って、長らく生きてきました。長男で体育会でそう躾けられてそう染み付いてたし、世の中楽しいことばかりなわけないわけで、何十年も人生そういうものだと思ってたわけです。そう言えば、社会に出て会社に入ったのは広告代理店だったのですが、内定者10人のうち2人地方営業に数年行ってもらいたいのだ、と総務に全員集められたんです。みんな下向いて一向に誰も手を挙げないので、東京がいいんだなと、「じゃ、僕行きます」。・・・というわけで赴任した茨城支局では、華々しいのは東京だけで広告なんて仕事は“士農工商代理店”だっぺよと先輩から教わります(ヒエラルキー最下層という意味)。でも仕事だからやらなくちゃなんねえ。先輩がやらなくちゃなんねんだから、後輩はもっとやらなくちゃなんねえ。ありがたいことに僕らの頃うさぎ跳びはなくなってたけど、体育会の上下関係は憲法より堅固な鉄の掟。その後、師匠となった上司から“仕事に貴賤なし”という大事な言葉をもらって、ますますその傾向は加速。どちらかといえば派手な仕事もある職場だからこそ、みんな貴賎つける、つける。そういう意味で、いつのまにか職場では“便利くん”と呼ばれたことも。そうすると、タフで泥臭い仕事ばかり集まってくるのです。曜日や時間がよくわからない新宿駅南口、上司と二人で客先への信号待ちで、「吉野さん、UFOが見えます・・・」と呟いてからというもの、岩崎はオモロイやつというパーセプションを取れたのは良かったけど、“(業務過多による)よくわからないものに攻められるような、自分でどうにもできない不安”は本物でした。それでも、それはそれで燃えてくるもので(時折銀座の深夜やってる大体マスターかおかみが優しい飲み屋で燃え尽きましたが)、高尿酸血症を痛風に昇進させることなく仕事で完全燃焼してました、きっと、たぶん。

新宿駅南口で見えたもの


どこいった、自分?

その後、縁あって出版社で働くことになったのですが、これまた黄色い太陽上等のコンプラも天ぷらもない世界。前職では先輩から声かけられた手前、労働組合の中執をやったりもしたのだけど、そもそも労組もないし労基が成果挙げられるとばかりに喜んでノックしたくなる職場です。広告の世界から来てるので、出版でもクライアントワークが主担当。競合やコンペに呼ばれては常に頭をフル回転させつつ落ち着いたフリで“お任せください”。なぜならば、ホニャララホニャララ・・・。そんな暮らしで七転八倒しているうちに、ある日、不思議な空洞感を感じるようになりました。美味しいもの食べたり、美しいもの見たりしても、心が反応しなくなった。Anybody home?と自分の心をノックしても、誰もいない感じ。“あ〜、いわゆる鬱ってこうやって始まるんだろうな”と鳥の目は働くんだけど、虫の目は死ぬほどある「やらなければいけない」タスクがこぼれ落ちないようひたすら指差し確認するのにフル稼働な日々。僕はもともとは神経質・几帳面・完璧主義というアカン体質だなと自覚してたので、意図的にルーズ・雑・余白を自らに課して生きてきたおかげか、発症までいかなかったのだけど、今でもはっきり覚えています。その真っ暗なトンネルを“抜けられる”と思った日のこと。季節はまだ肌寒い春先だったのですが、あったかい日で、久々に咲き始めた花を見て、久々にTシャツになって風に触れて、久々に海に入ってモミクチャにされたんです。この3つのおかげで、もう大丈夫、と思った。しかし、遠因はうっすら自分でもわかっていました。mustへの義務感です。

よくあるやつ


誰にもやるべきことがある 

そんな日々をもんどり打ってるうちに歳も重ね、マネジメントや数字に追われるようになります。人の上に立つことが昔から好きでない自分のwillはますますどこ吹く風と知らん顔。偉くなってってるんだからとか耳元で言い聞かせようとするアホな自分もいるのですが、当然mustへの義務感だけでなく責任感も重くなっていくわけです。なんか重いなあ重いなあと稲川淳二のように思ってたある日、いろんな運命の糸が美しく絡み合って僕は会社を辞めることになります(この話だけで本書けるのでそれはまたの機会に)。・・・会社辞めてみて、激変したことがあるんです。あれだけ自分のストロングポイントでもありウィークポイントでもあったmustが、”やらなければならないこと”から、気付けば”やるべきこと”に変わっていたんです。恥ずかしい表現でしか言えないけど、使命感。“使命”って正義の味方っぽくて嫌だなと思ってきたのだけど、「どう命を使うか?」ってことなんだと気付いたのです。長年義務や責任(=やらなければならない)に応える自分を肯定したかったんだなと思いながら、そっか、そーじゃん、mustってそういう意味もあったじゃん!と目ウロコ。これで三位一体、主体が完全に自分になりました。自分が問われて、自分で答えを出す。なんと清々しいことでしょう。やらなければならないことをやりすぎると己が不在になるんです。先日請われた武蔵野美術大学の根津産学プロジェクトでも学生に問わせてもらいました。「君にはやるべきことがありますか?」と。組織のためチームのためwillやcanと相入れずとも尽力する人は尊いと今でも思います。滝沢先生とイソップと一緒に泣き、安西先生にバスケがしたいですと泣いた世代。裏を返せば集団に適応せよと教育された世代。その教育で育まれた同調圧力にどれだけの人が苦しんできたことでしょう。同調圧力からイノベーションは絶対に生まれません。イノベーションは非常識と出島と「あいつ変じゃないか?」からやってくるんです。心頭滅却すれば火もまた涼しいけれど、滅私奉公はもうしないと決めました。私のない仕事は結果いいものにならないから。“みんなやりたくないなら、やるしかないじゃん、つーか進まないじゃん、おれやるわ”と今までずーっと思ってきたけど、もうしません。ごめんね、その代わり、”やるべきこと”を全力でやります。やれることとやりたいことをフルに使って。
 

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