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真性S女 アトリエ・エス と行く万葉のたび

第三十五回 富士の柴山 ~ 生活の場としての富士

いつぞやの富士の高嶺の続編、ここにもってきます。


   天の原 富士の柴山 木の暗の時 移つりなば 逢はずかもあらむ


   富士の嶺の いや遠長き 山路をも 妹がりとへば けによばず来ぬ


巻十四東歌から、いずれも恋の歌ですね。
上 三三五五は生活の場としての富士、下 三三五六は恋人に会うためには障害となっている富士を歌ってますか。

後先になりましたが犬養孝先生の、この回の講義のあらすじを全文記載しましょう。

>神亀天平の歌人山部赤人は、富士を仰いで創作意識を自在に駆使し、かの有名な不盡山歌をつくった。
>それはなによりも旅の宮廷人の感覚であって、土地の人には、生活の山ではあっても美の対象ではない。
>人間と風土との関連はみごと一つの富士を現出している。

そして先生は、「赤人と現地の人とでは、全く富士の見方が違う。現地の人は(赤人と違って)美しいなんて思って見てない。そんなことしてたら仕事にもなんにもなりゃしないから。」
と、おっしゃってました。

うーん、いくら犬養博士のお説でも、私、昔からこれだけは賛成できないんです。

昔、浦安ディズニーランドにいった折のことです。
帰り際にキャストと呼ばれている清掃員の人たちが、「今日の花火は綺麗だったね」と話していたのを聞いたことがありました。
随分小さいじぶん(←掛詞)のことでしたが、はっきりと覚えています、だって私も花火が綺麗だと思ったから。

人の感性にも最大公約数みたいなものがあるもの、綺麗だと思うものは大抵の人が綺麗だと思うものです。
旅人であろうが現地人であろうが、業務中であろうが業務外であろうが。
いや、むしろ『業務中』の人のほうが、こういった小さな楽しみを見つけて『心の休み時間』にするのではないでしょうか?

万葉集に登場する歌人は天皇から乞食まで種々雑多な人たち、この種の『最大公約数』が『万』葉の心なのではないでしょうか? 先生。

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