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「友達は何人いますか?」と聞かれた話

昨日、久しぶりにスマホのアドレス帳を整理した。
 
一度しか行ってないレストランやカフェ、仕事で連絡先を交換した人(今はもうつきあいがない)、以前住んでいたアパートの管理会社などなど、もう連絡を取ることもないだろうなという連絡先をポチポチ削除していった。
 
そのなかには、何年か前によく飲みに行ったり遊んだりしていた人もいたけれど、なんとなくもう会うことはないような気がして連絡先を消した。
 
 ***

わたしが友達について、はじめてまじまじと考えたのは小学5年生の頃。

ある日、学級会でアンケート用紙を配られた。

当時は平成のはじめ。学級崩壊が社会問題として注目され始めたころで(事実、隣のクラスは学級崩壊寸前だった)、そのアンケートは生徒の学校内での実態を調査する目的があったのだと思う。
 
「学校で楽しみなことは?」とか「好きな授業は?」といった他愛ない質問の中に「クラスに友達は何人いますか?」という問いがあった。
 
これが、衝撃だった。
 
実はわたし、クラスメイト31人全員を友達だと思っていた。クラスメイトどころか、それまで知り合ったすべての子を友達だと思っていたのだ。
 
もちろん中には乱暴な子や偏屈な子、趣味の合わない子もいたけれど、それらが理由で誰かを嫌いになるなんてことはなく、みんなのことを平等に友達だと思っていたし、同じようにみんな自分のことを友達だと思ってくれていると信じて疑わなかった。たぶん、あの頃が人生で一番幸せだったと思う。
 
このとき、わたしは初めて誰もが友達になれるわけではないし、人と人の関係は平等じゃないってことに気づくことができた。
 
特別ってのは不平等で差別的だ。誰とでも仲良くすることが良いことだと教わってきたけれど、誰かと友達になるってことは不平等で差別的なことでもある。
 
単なる仲良しじゃなくて、他の人とは違うんだって言える誰か。他の人には話せないことを話せる誰か。他の人には話せない悩みや不安を分けてもらえるような誰かっているの?って、小学5年生のわたしは自問自答した。
 
びっくりだけど、いなかった。一人も思いつかなかった。
 
A子ちゃんとはとくに仲良しな気がしてたけど、A子ちゃんは幼馴染のB子ちゃんのことを親友って呼んでるな、とか。C子ちゃんとは趣味が合うけど、クラス替えしたらもう喋らなくなったな、とか。
 
ふだん仲良しのあの子もこの子も、実は友達じゃないという気づきはわたしをちょっと大人にした気がする。それはたぶん悲しいことじゃない。
 
そして、友達だからって、ずって一緒にいられるわけじゃない。
 
 ***

アドレス帳に、もう何年も連絡を取っていない友達の名前がある。
 
ある日、突然、音信不通になってしまった友達。喧嘩をしたわけでもないし、ほんとうに煙みたいに消えてしまって誰に聞いても消息が分からない。

誰にも言えない事情があったのかもしれないし、本当はわたしにものすごくムカつくことがあっただけなのかもしれないけど、いまもどこかで元気にしていてくれるならいいなと思う。だけど、いつか電話がかかってきたらすぐに取れるように、連絡先は消せないでいる。
 
この先、もう会うことはなかったとしても、きっとずっとわたしの中では気の置けない友達のままだ。


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