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倉敷ぶらぶら歩き。玉野~倉敷美観地区へ

その昔、倉敷は海だったという。

夫の祖父母がかつて住んでいたという岡山県玉野市は、倉敷美観地区まで車で30分ほどの街だ。

直島行きのフェリーの発着所がある港町で、瀬戸大橋ができるまでは岡山から四国へ向かうにはこの街でフェリーに乗るしか術がなく、行き交う人々でそれは賑わっていたらしい。

倉敷は、いつか行ってみたいなと思いながら、きっかけがなかった街だ。レトロ建築が好きな私にとって、とりわけ倉敷美観地区には憧れがあった。

今回、お墓参りで玉野を訪れることが決まってから、ついでに倉敷まで足を延ばそうと決めていた。しかし、いざ行くというときになって、実は倉敷について知っていることといえば大原美術館くらいのもので、このあたりの土地勘があまりないことに気づいた。

そこで調べてみると、玉野とそのお隣の児島という街はその昔、海に浮かぶ島だったそうな。

↓こちらのサイトに分かりやすい図解が掲載されているが、想像以上に海だった。

玉野一帯のみならず、江戸時代に干拓されるまで、倉敷周辺は浅瀬の海が広がっていたそうで、実際、室町時代以前の古地図を覗いてみると海にぽつぽつと島が浮かぶ様子が描かれている。

近隣のしまなみ海道あたりで見られるような、瀬戸内海らしい多島美がここにも広がっていたのではないかと夢想すると、倉敷の街歩きはいっそう楽しい。

運河がもたらした倉敷の富と文化

さて、海を干拓して街をつくるわけなので、土の塩分濃度は高く米作には不向き。そのために考えられたのが綿花栽培で、のちに倉敷を日本一の繊維産業のまちへと発展させることに繋がっていきます。

江戸時代には、周辺で収穫された米を集める場所として定められました。当時の米は金同様の価値があるのだから、倉敷がどれほど重要な場所であったか理解できるというもの。

海が近く、運搬のための運河があり、繊維産業が発達した倉敷に莫大な富がもたらされ続けたことは、言葉で聞くよりもその美しい街並みを目の当たりにする方がすんなり理解できます。重厚な赤煉瓦と白壁のお屋敷の和洋折衷な美意識がいかにも倉敷らしい。

 倉敷の大地主であり倉敷の街づくりに多大な貢献をした大原一族。

洋の東西を問わずあらゆる分野の一級品をコレクションする大原美術館を発展させた大原總一郎氏は、ドイツを訪れた折、中世の街並みを残す美しい都市ローテンブルクの街並みに感銘を受け、倉敷を日本のローテンブルクにしたいと願ったという。

大原美術館正面の門

倉敷川に沿って広がるわずか300メートル四方ほどの倉敷美観地区には、時代も建築様式も異なる、しかし、いずれも美しく、仕立ての良い建築が現代まで大切に保存され、今も人々の暮らしがそこで行われている。

大切に守られてきた小さな宝石箱のような街、それが倉敷。

 小さな街ながらも、美術館や博物館、倉敷デニムのショップ、おしゃれな雑貨店、カフェ等々が集結していて目移り必須。

せっかくだから倉敷川の川下りや、人力車での観光も楽しみたいとなれば、あっという間に時間が過ぎてしまいますので、時間には余裕をたっぷり見て訪れるのがおすすめです。

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