リルケの詩集

久々に実家に帰ったら、実家の荷物整理を手伝わされたが、その中で、中学1年生の時、学校の課題で自分で選んだ詩集を紹介する授業のために買った詩集が出てきて、少し読んでみた。
パラパラとページをめくり、何ともなく興味のあるような、ないようなタイトルを読んだり読まなかったりした中で、とある題の詩集が目に留まった。
それが、「読書をする人」という、リルケが1907~08年にかけて書いた「新詩集」にまとめられている一編である。

読書する人

誰が知ろう 彼のことを? その顔をこの現実からそむけて
第二の現実に沈めているこの男のことを?
ただ 豊かな頁がす早くめくられるときにだけ
その現実は時おり激しく中断される
(空白)
母親でさえもが確かではないだろう
そこで自分の陰影にひたっているものを読んでいる男が はたして
彼なのかどうか? そしてわれわれ「時」を持っていたわれわれが
いったい何を知ろう 彼にどれだけの「時」が消え去ったかを?
(空白)
最後にやっと彼は面をあげた 下の書物のなかに
とどまっているものを 自分の高さに拾いあげながら
そして彼の眼は 外部のものを受け取るというよりは
与えながら そこに出来上がっていた豊かな世界に突きあたっていたのだった
ちょうどひとりで遊んでいたもの静かな子供たちが
急に外部の世界の存在を知るように。
けれども既にととのえられていた彼の表情は
いつまでも彼方にとどまっていた あの第二の現実のなかに
                             Der Leser

『読書をする人』「新詩集」

感想

これを読み、久しく触れていなかった「詩」という概念に触れて、このような詩的な表現によって、ヨーロッパの街並みの噴水の前のベンチなのか、はたまた村のような場所にポツンとある教会の中なのか場所はわからないが、その読書をしている人物が、まるで脳内にプロジェクターで映像を流しているように、鮮明にイメージができる。

また、この詩は、読書をすることによって、人はどうなるのか示唆している。第1連と第2連では、「彼」という人物が相当熱心に本に集中している様子が表現されている。第1連の1〜2行目の、「現実」から目を背け、「第2の現実」に没頭しているという部分と、
3〜4行目の「頁(ページ)」がめくられる時だけ、第二の現実が「中断される」という部分。
また、第2連の1〜3行目で、「彼」を母親でさえ認識することができないと説明し、
3〜4行目で、「時間」が消え去ったという部分から判断できる。

第3連では、そのように集中して本を集中して読んだことによって、「彼」自身の世界の見え方が、本の中の世界の見え方と合わさることで変わったことを表現している。
それは、3〜4行目の読書後に、「彼の眼」で見るものは、読書によってつけた知識を「世界」に「与えること」によって、世界の見え方が「豊か」になるということと、
7〜8行目の、「彼の表情」すなわち彼の気持ちが、「第二の現実」の中にとどまっていたと書いていることから、判断できる。


感想②

リルケは、詩によって、本来、直接的に解説されてしまう啓発したい内容を、読者自身にイメージさせ、自らたどり着かせている。
もしかしたら(というか、もしかしてでもなく)、今回僕がこの「読書をする人」で得た知識は、僕の「世界の見え方」に影響されていることであって、単なる解釈でしかないのかもしれない。だから、全くみんな同じように受け取る人というのはいないのかも。

それでも、この詩という形式は、アニメや漫画などの具体的なものよりも、より人に考えさせ、イメージさせる抽象性を持っている。素晴らしいものだ!(詩の言葉遣いに影響されてる)

まとめ

まとめると、中学1年の時にこの詩を買った僕ナイス!ということと、「読書をする人」が面白いということと、詩という形式が素晴らしい!ということでした。

今回紹介した詩がまとめられている「リルケ詩集」は以下の新潮文庫のものを購入しました。


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